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如来の無上の正法を見聞した大恩を、人間なら誰が忘れることがあろうか『第十六行持下』16下-9-6

 〔『正法眼蔵』原文〕

 世人のなさけある、金銀珍玩チンガンの蒙恵モウケイなほ報謝す、

好語好声コウゴコウショウのよしみ、こゝろあるはみな報謝のなさけをはげむ。


如来無上の正法を見聞する大恩ダイオン、たれの人面ニンメンか、わするゝときあらん。


これをわすれざらん、一生の珍宝なり。


この行持を不退転ならん形骸髑髏ケイガイドクロは、生時死時ショウジシジ

おなじく七宝塔におさめ、一切人天皆応供養イッサイニンデンカイオウクヨウの功徳なり。


かくのごとく大恩ありとしりなば、かならず草露ソウロの命を

いたづらに零落レイラクせしめず、如山の徳をねんごろに報ずべし。


これすなはち行持なり。


 この行持の功は、祖仏として行持するわれありしなり。


おほよそ初祖・二祖、かつて精藍ショウランを草創ソウソウせず、薙草チソウの繁務なし。


および三祖・四祖もまたかくのごとし。


五祖・六祖の寺院を自草ジソウせず、青原・南嶽もまたかくのごとし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

世間でも人情味のある人は、金銀や珍しい物をもらえば報恩感謝する。

やさしい言葉や声をかけられれば、心ある人はみな報恩感謝の心を起こすのである。

(世人のなさけある、金銀珍玩の蒙恵なほ報謝す、好語好声のよしみ、こゝろあるはみな報謝のなさけをはげむ。) 


如来の無上の正法を見聞した大恩を、人間なら誰が忘れることがあろうか。

これを忘れないことは、一生の貴重な宝である。

(如来無上の正法を見聞する大恩、たれの人面か、わするゝときあらん。これをわすれざらん、一生の珍宝なり)


この行持を怠らずつとめぬいた亡骸や髑髏は、生きている時も死んでからも同じく七宝の塔に収め、一切の人間界・天上界の衆生がみな供養すべき功徳があるのである。

(この行持を不退転ならん形骸髑髏は、生時死時、おなじく七宝塔におさめ、一切人天皆応供養の功徳なり。)


このように大恩があると知れば、草露の命を無駄に落とすようなことはせず、

山のごとき恩徳にねんごろに報いなければならない。

これがとりもなおさず行持なのである。

(かくのごとく大恩ありとしりなば、かならず草露の命をいたづらに零落せしめず、如山の徳をねんごろに報ずべし。これすなはち行持なり。)


この行持の功徳は、祖師や諸仏として行持するわれがあるということである。

(この行持の功は、祖仏として行持するわれありしなり。)


およそ初祖達磨大師や二祖慧可は、決して寺院を創設したり、山野を切り開くような繁務はなかった。また三祖鑑智僧璨や四祖大医道信も同様であった。

五祖大満弘忍や六祖大鑑慧能も寺院を自ら創建することなく、

青原行思や南嶽懐譲もまた同様であった。

(おほよそ初祖二祖、かつて精藍を草創せず、薙草の繁務なし。および三祖四祖もまたかくのごとし。五祖六祖の寺院を自草せず、青原・南嶽もまたかくのごとし。)



           合掌


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