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ただ日々の行持だけがその報恩感謝の正しい道である『第十六行持下』16下-9-4

 〔『正法眼蔵』原文〕

 しづかに観想すらくは、初祖いく千万の西来ありとも、

二祖もし行持せずば、今日の飽学措大ホウガクソダイあるべからず。


今日われら正法を見聞するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。


その報謝は、余外ヨゲの法はあたるべからず、

身命シンメイも不足なるべし、国城もおもきにあらず。


国城は他人にもうばはる、親子シンシにもゆづる。


身命は無常にもまかす、主君にもまかす、邪道にもまかす。


しかあれば、これを挙して報謝に擬するに不道なるべし。


ただまさに日々の行持、その報謝の正道ショウドウなるべし。


 いはゆるの道理は、日々の生命を等閑ナオザリにせず、

わたくしにつひやさざらんと行持するなり。


そのゆゑはいかん。この生命は、前来の行持の余慶なり、

行持の大恩なり、いそぎ報謝すべし。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

〔ここからは道元禅師の考えを述べられる。〕

静かに考えてみれば、達磨大師がいく千万人西来されようとも、

二祖がもし行持しなければ、今日の我々が仏法を十分に学ぶことなどあろうはずはないのである。

(しづかに観想すらくは、初祖いく千万の西来ありとも、二祖もし行持せずば、

 今日の飽学措大あるべからず。)


今日の我々が正法を見聞できるものとなったご恩、この二祖の恩は必ず報恩感謝しなければならない。その報恩感謝は、他の方法は当たらない、

身命でも不足、国や城でもたいしたことではない。

(今日われら正法を見聞するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は、

 余外の法はあたるべからず、身命も不足なるべし、国城もおもきにあらず。)


国や城は他人に奪われるし、親が子に譲ることもある。身命は死に任せ、

主君に任せ、邪道にも任すものである。そうであるから、

国や城や身命を報恩感謝に充てても報恩感謝にはならない。

(国城は他人にもうばはる、親子にもゆづる。身命は無常にもまかす、主君にもまかす、

邪道にもまかす。しかあれば、これを学して報謝に擬するに不道なるべし。)


ただ日々の行持だけが、その報恩感謝の正しい道である。

(ただまさに日々の行持、その報謝の正道なるべし。)

 

その道理は、日々の生命をなおざりにせず、

わたくしごとに費やすまいと行持することである。

(いはゆるの道理は、日々の生命を等閑にせず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。) 


そのわけはどうか。この生命は、前世以来の行持のお陰であり、

行持の大恩である、急いで報恩感謝しなければいけない。

(そのゆゑはいかん。この生命は、前来の行持の余慶なり、行持の大恩なり、

 いそぎ報謝すべし。)



            合掌


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