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密かに鋭い刀を取って、自ら左臂を切り、師の前に置いた『第十六行持下』16下-9-3

 〔『正法眼蔵』原文〕

 初祖、あはれみて昧旦マイタンにとふ、

「汝久立雪中、当求何事

《汝、久しく雪中に立つて、当マサに何事をか求むる》」。


 かくのごとくきくに、二祖、悲涙ますますおとしていはく、

「惟願和尚、慈悲開甘露門、広度群品」

《惟タダ願はくは和尚、慈悲をもて甘露門を開き、広く群品グンポンを度すべし》」。


 かくのごとくまうすに、

 初祖曰、「諸仏無上妙道、曠劫精勤、難行能行、非忍而忍。豈以小徳智、

軽心慢心、欲冀真乘、徒労勤苦《諸仏無上の妙道は、曠劫コウゴウに精勤ショウゴンして

行じ難きを能く行じ、忍ぶべからざるを能く忍ぶなり。豈アニ小徳小智、軽心キョウシン慢心

を以て、真乘を冀ネガはんと欲せば、徒労イタヅラに勤苦ゴンクならん》


 このとき、二祖きゝていよいよ誨励カイレイす。ひそかに利刀をとりて、

みづから左臂サヒを断タチて、置于師前チウシゼンするに、

初祖ちなみに二祖これ法器なりとしりぬ。


 乃スナハチイワク、「諸仏最初求道、為法忘形。汝今断臂吾前、求亦可在

《諸仏、最初に道を求めしとき、法の為に形を忘じき。

 汝今臂を吾が前に断つ、求むること亦可なること在り》」。


 これより堂奥ドウオウにいる。執侍シュウジ八年、勤労千万ゴンロウセンハマン

まことにこれ人天ニンデンの大依怙ダイエコなるなり、人天の大導師なるなり。


かくのごときの勤労は、西天サイテンにもきかず、東地はじめてあり。


破顔は古イニシエをきく、得髓は祖に学す。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 初祖達磨大師は、哀れんで薄暗い明け方に尋ねた.「おまえは、

長い間雪の中に立って、何を求めようとしているのか」と。

(初祖、あはれみて昧旦にとふ、「汝、久しく雪中に立つて、当に何事をか求むる」。) 


 このように聞いて、二祖は悲しみの涙をますます落とし

「どうかお願いです、和尚様、慈悲をもって甘露の法門(仏の境界に至る教え)

を開き示して、広く衆生をお救い下さい」と言った。

(かくのごとくきくに、二祖、悲涙ますますおとしていはく、

「惟し願はくは和尚、慈悲をもて甘露門を開き、広く群品を度すべし」。)


 このように申し上げると、

 (かくのごとくまうすに、)


 初祖は、「諸仏の無上の妙道は、永遠に精進して行じ難きを行じ、

忍び難きを忍ぶものであり、徳や智慧の少ない者が、軽々しく慢心して、

真実の仏の教えを求めようとしても、徒に苦労するだけだ」と言った。

(初祖曰く、「諸仏無上の妙道は、曠劫に精勤して行じ難きを能く行じ、

忍ぶべからざるを能く忍ぶなり。豈小徳小智、軽心慢心を以て、

真乘を冀はんと欲せば、徒労に勤苦ならん」。)


 この時、二祖はこの言葉を聞いていよいよ志を固め、

密かに鋭い刀を取って、自ら左臂を切り、師の前に置いた。

初祖はそれを見て二祖が仏法を授けるに足る器であると知った。 

(このとき、二祖きゝていよいよ誨励す。ひそかに利刀をとりて、

みづから左臂を断て、置于師前するに、初祖ちなみに二祖これ法器なりとしりぬ。)


そして初祖は、「諸仏は最初に道を求めた時、法の為に自分の身を忘れた

と言う。お前が今、臂を私の前で切って道を求めていることも、

またよしとすべきである」と言った。

(乃曰、「諸仏、最初に道を求めしとき、法の為に形を忘じき。

 汝今臂を吾が前に断つ、求むること亦可なること在り」。)


 これより二祖は初祖の室内に入ることを許された。

 (これより堂奥にいる。)


それから仕えること八年、あらゆる労苦を忍んで修行に励んだ、

実にこれは人間界・天上界の大きな心の拠り所であり、

人間界・天上界の大導師である。

(執侍八年、勤労千萬、まことにこれ人天の大依怙なるなり、人天の大導師なるなり。)


このようにあらゆる労苦を忍んで修行に励んだことは、

インドでも聞かれず、中国でも初めてのことである。

(かくのごときの勤労は、西天にもきかず、東地はじめてあり。)


摩訶迦葉の父母未生已前の面目が破れて、

釈迦牟尼仏の面目になってしまったことは古に聞く、

(破顔は古をきく、)


達磨大師から汝吾が髄を得たりという証明を受けたことは、

二祖慧可大師に学ぶのである。

(得髓は祖に学す。)



            合掌


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