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大医禅師:首を刀の前に差し出し、厳然として顔色を変えなかった『第十六行持下』16下-11-1

 〔『正法眼蔵』原文〕 

 第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、

三祖大師をみしより、服労九載フクロウクサイなり。


すでに仏祖の祖風を嗣続するより、

摂心無寐ムビにして脅不至席キョウフシセキなること僅キン六十年なり。


、怨親オンシンにかうぶらしめ、徳、人天ニンデンにあまねし。


真丹の第四祖なり。


 貞観ヂョウガン癸卯歳、太宗嚮師道味、欲瞻風彩、詔赴京。師上表遜謝、前後三返、竟以疾辞。第四度、命使曰、「如果不赴、即取首来」。使至山諭旨。師乃引頚就刄、神色儼然。使異之、廻以状聞。帝弥加歎慕。就賜珍 、以遂其志


 《貞觀癸卯ミズノトウの歳トシ、太宗、師の道味を嚮トウトび、風彩を瞻んとして、赴京フキョウを詔ショウす。

師、上表して遜謝すること前後三返、竟ツイに疾を以て辞す。第四度、使に命じて曰く、「如モシ果して赴せずは、即ち首を取りて来れ」。使、山に至つて旨を諭す。師乃ち頚を引いて刄ヤイバに就く、神色儼然たり。使、之を異とし、廻カエつて状を以て聞ブンす。

帝、弥加イヨイヨ歎慕す。珍 チンゾウを就賜シュシして、以てその志を遂ぐ》



〔『正法眼蔵』私訳〕

 釈尊から第三十一祖(中国の四祖)大医道信禅師は、十四歳の頃に、

中国の三祖鑑智僧璨禅師と出会ってから、師に随身すること九年であった。

(第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。)


すっかり仏陀と祖師の家風を受け継いでからは、心を摂め坐禅して眠ることなく、横になって寝ないことが、ほとんど六十年に及んだ。

(すでに仏祖の祖風を嗣続するより、摂心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。)


その教化は一切の人に与えられ、その徳は人間界にも天上界にも遍く行き渡った。

(化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。)


これが中国の第四祖である。

(真丹の第四祖なり。) 


 貞観十七年(643年)、唐の太宗(第二代李成民)は師の宗風を尊び、

その風貌を見ようとして、都へ赴くようにと詔を下した。

(貞觀癸卯の歳、太宗、師の道味を嚮び、風彩を瞻んとして、赴京を詔す。)


師は上奏文を奉ってことわること前後三遍に及び、

ついに病を理由に辞退した。

(師、上表して遜謝すること前後三返、竟に疾を以て辞す。)


太宗は四度目の使いに、

「もしどうしても来ないなら、首を取って来い」と命じた。

(第四度、使に命じて曰く、如モシ果して赴せずば、即ち首を取りて来れ。)


使いは、師の住んでいる山に行き、そのことを述べて諭サトした。

(使、山に至つて旨を諭す。)


すると師は、首を刀の前に差し出し、厳然として顔色を変えなかった。

(師乃ち頸を引いて刄に就く、神色儼然たり。) 


使者はこのたぐいまれな態度に感激し、帰ってその様子を帝に申し上げた。

(使、之を異とし、廻つて状聞す。帝弥加歎して慕う。)


この話に帝はいよいよ師を讃歎し敬慕し、珍しい上等の絹を下賜し、

それによってその志を遂げた。

(就いて珍 を賜して、以てその志を遂ぐ。)



          合掌


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