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武帝は、達磨大師が何を言っているのかわからなかった『第十六行持下』16下-2-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

帝、不領悟。師、知機不契《帝、領悟せず。師、機の不契なるを知る》。           


ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。


そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。


嵩山スウザン少林寺に寓止グウシして、面壁而坐メンペキニザ、終日黙然モクネンなり。


しかあれども、魏主ギシュも不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず。



〔『聞書』私訳〕

/梁の武帝と初祖の問答は、草子に明らかである。 


/「来時好道、去如来時」(来る時は好き道、去るも来る時の如し)という言葉がある。


これは、舎那多尊者が、阿育大王の請に依って唱道(法門を演説すること)を勤めた時、ただこの一句だけを言って座より降りたが、諸人は理解できず、ただ大王だけが独り随喜した、とある。


この意味は、六道の中の好い道(天上道・人間道)より生れて来て今大王となり、善いことを行えば、この世を去るときも善であろうというのである。「如実の道に乗じて、来たって正覚を成ず」の意味である。


「造寺」もただ世間の家のように思い、「写経」も文字のように理解しては、たとえば仏寺を建立する果は誠に小果である。廚庫・山門を光明ほどに理解して造堂・造塔するなら、その果は実相である。


師、答えて曰く、「廓然無聖」というのは、この「無聖」は、「浄智妙円、体自空寂」の「聖諦第一義」というときは、聖とも凡ともあげることはできない。故に「無聖」と言う。


「対朕者誰」と言うのは、師を聖と思うためか。「第一義」の上で、師を聖と言うことはできない。故に「不識」と言う。「帝不領悟機不契」である。  


 

〔『抄』私訳〕 

梁の武帝との問答の時の、初祖の「不識」という言葉は、「不会仏法」というほどの語義である。 




〔『正法眼蔵』私訳〕

武帝は、大師が何を言っているのかわからなかった。

(帝、領悟せず。)


大師は、武帝が法を聞いて悟る器でないことを知った。

(師、機の不契なるを知る。)  



故に師はこの十月十九日に密かに揚子江の北に渡り、

その年の十一月二十三日に、洛陽に到着した。

(ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。

そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。)


嵩山の少林寺に仮住まいして、一日中黙々と壁に向かい坐禅した。

(嵩山少林寺に寓止して、面壁而坐、終日黙然なり。)


しかし、魏の国の国主も愚かで達磨大師のことを知らず、

知らないことを恥とすべき道理も知らなかった。

しかあれども、魏主も不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず。) 



              合掌


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