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南嶽大慧禅師「一物を説似すれども即ち中らず」『第十六行持』16-18a


〔『正法眼蔵』原文〕                                    

 南嶽ナンガク大慧禅師ダイエ ゼンジ懐譲和尚エジョウ オショウ、そのかみ曹谿ソウケイに参じて、執侍シュウジすること十五秋ジュウゴシュウなり。

しかうして伝道授業デンドウ ジュゴウすること、一器水瀉一器イッキスイ シャイッキ《一器の水を一器に瀉ウツす》なることをえたり。

古先コセンの行履アンリ、もとも慕古モコすべし。

十五秋の風霜フウソウ、われをわづらはすおほかるべし。

しかあれども、純一に究辨キュウベンす、これ晩進の亀鏡キキョウなり。

寒爐カンロに炭なく、ひとり虚堂キョドウにふせり、涼夜に燭ショクなく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解イッチハンゲなくとも、無為ムイの絶学なり。

これ行持なるべし。

 おほよそ、ひそかに貪名愛利トンミョウ アイリをなげすてきたりぬれば、     日日に行持の積功シャックのみなり。このむね、わするることなかれ。


説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウは、八箇年の行持なり。


古今のまれなりとするところ、賢不肖ケンフショウともにこひねがふ行持なり。 



〔『正法眼蔵』私訳〕                                南嶽の大慧禅師、懐譲和尚は、その昔曹谿山の六祖大鑑慧能禅師に参じて、そばに仕えて修行すること十五年間であった。

(南嶽大慧禅師懐譲和尚、そのかみ曹谿に参じて、執侍すること十五秋なり。)


そうして仏祖の大道を伝えられ出家としての業を授かることは、「一器の水を一器に移す」ようにできたのである。

(しかうして伝道授業すること、一器水瀉一器なることをえたり。)


この懐譲和尚の行持は、もっとも慕うべきである。

(古先の行履、もとも慕古すべし。)


十五年の厳しい月日は、自分を煩わすことが多かったであろう。

(十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。)


そうではあるが、純一に坐禅弁道したことは、仏道修行を志す後輩たちの手本である。

(しかあれども、純一に究辨す、これ晩進の亀鏡なり。)


冬の炉に炭火もなく、独りがらんとした僧堂で寝る。

(寒爐に炭なく、ひとり虚堂にふせり。)


夏の夜に燈火もなく、独り衆寮で坐禅する。

(涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する。)


たとえ知識や理解が少しもなくても、これが作為無く学問に要がなくなった修行の在り様である。

(たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。)


これが仏祖の行持である。

(これ行持なるべし。)


およそ、名利を貪り愛することを投げ捨ててきたならば、日々に行持の功徳を積むだけである。

(おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日日に行持の積功のみなり。)


このことを忘れてはいけない。

(このむね、わするることなかれ。)


「一物を説似すれども即ち中らず」(あるものを言葉で説明した途端に的外れになるとは、八年間の行持により得られたものである。

(説似一物即不中は、八箇年の行持なり。)


古今に希なことであり、賢者も愚者もともに切望する仏祖の行持である。

(古今のまれなりとするところ、賢不肖ともにこひねがふ行持なり。)


南嶽大慧禅師「一物を説似すれども即ち中らず」『第十六行持』16-18b

               合掌


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