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起こる時はただ法のみ起こる『第十三海印三昧』13-5a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 「起時唯法起」。


この法起、かつて起をのこすにあらず。


このゆゑに、起は知覚にあらず、知見にあらず、

これを「不言我起」といふ。


「我起」を「不言」するに、別人は此法起と見聞覚知し、

思量分別するにはあらず。


さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。


起はかならず時節到来なり、時は起なるがゆゑに。


「いかならんかこれ起なる、起也キヤ」なるべし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 「起こる時はただ法(ものごと)のみ起こる」と言う。

  (「起時唯法起」。)


「起こる時はただ法のみ起こる」という道理の外に、

今まで一度も残すべき起こることなどないのである。

(この法起、かつて起をのこすにあらず。)


このために、起こることは知覚にのぼらず、知見にまじわらないのである。このことを「我れ起こると言わず」と言うのである。

(このゆゑに、起は知覚にあらず、知見にあらず、これを「不言我起」といふ。)


「我れ起こる」と「言わない」ので、別の人はこの法が起こると見聞覚知したり、思量分別したりしようはないのである。

(「我起」を「不言」するに、別人は此法起と見聞覚知し、思量分別するにはあらず。)


「我れ起こると言わない」の上に加えて相見(相い見マミえること)を許せば、

起は起と相見し、滅は滅と相見することになるのである。

(さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。)

〔本来の面目に逢いたいと思ってきたが、逢ってみれば眼横鼻直の自分の今の様子があるだけだということである。〕


起こるとは必ず時が来ることである、時とは起こることである。

(起はかならず時節到来なり、時は起なるがゆゑに。)

〔うぐいすが啼く、春が来た、時が来たのである。〕


「起こること以外に何もないから、起こることと時を別のものとしてはならない」のである。

(「いかならんかこれ起なる、起也」なるべし。)


起こる時はただ法のみ起こる『第十三海印三昧』13-5b


                              合掌


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