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『正法眼蔵第十三 海印三昧』 第一段 13-1a

 〔『正法眼蔵』原文〕 

 諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。


この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、行時あり。


海上行コウの功徳、その徹底行あり。


これを深々海底行なりと海上行するなり。


流浪生死ルロウショウジを還源ゲンゲンせしめんと願求ガングする、

是什麼心行シシモシンギョウにはあらず。


従来の透関破節、もとより諸仏諸祖の面々なりといへども、

これ海印三昧の朝宗チョウソウなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

諸仏諸祖としてあるのは、

必ず海印三昧(三昧の海に万物が映る諸仏の全境地:坐禅の様子)のありようである。

(諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。)


海印三昧の自由自在なありようの中で、海印三昧を説く時もあり、海印三昧を実証する時もあり、海印三昧を行ずる時もあり、

(この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、行時あり、)


海印三昧の功徳は、その底まで徹する行がある。

(海上行の功徳、その徹底行あり。)


これを奥深い海印三昧として海印三昧を際限なく行ずるのである。

(これを深々海底行なりと海上行するなり。)


生死に流浪するのをやめ自己の本源に還ろうと願い求めるのは、

どういう料簡かと言われるような坐禅ではない。

(流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。)


これまでの諸仏諸祖は、言うまでもなく海印三昧の関門を透過し生死迷悟の節を打ち破って解脱した方々であるが、それは海印三昧のその時その時の現成である。

(従来の透関破節、もとより諸仏諸祖の面々なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。)


                           合掌


                           

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