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『正法眼蔵第十三 海印三昧』 第一段 13-1b

〔『聞書』私訳〕

/「衆法合成此身」と今の「海印三昧」と、『仏性』の巻で「一切衆生悉有は仏性である」というのとただ同じことである。


/諸経で、真如だ、仏性だ、実相だ、一心だなどと言う。その名は異なるが意は同じである。ある時は真如を本とし、ある時は仏性を本とし、ある時は実相を本として、このように繰り返し言うのである。


また、教と行は別の法があるが、証の時は同じであるなどと教家では説くが、そうではない。教と行は眼前のものとして現れるから、それぞれ別と思われ、証は現れるものでないから、どんなにしても様子が分からないから、教行証のどれも同じであるということになるが、今は教行証のいずれも漏れることはないのである。


/「衆法」という衆の字は、理解の仕方は様々である。衆生といってもそれぞれである。人衆生・畜衆生それぞれであるとも言うことができる。人衆生の内は、やはりまた業報の善悪によってそれぞれ別で様々である。


また、「総即別名」(色蘊は総体であるが、別して眼根所証の境に色の名を与えること)と言って、多い総に名付けて衆生という文字を置くが、この内の一つを言おうとして衆生の名があるのである。経に一衆という言葉もあり、衆とは多く集まることについた言葉で、諸というのと同じ意味である。ところが、一衆生と言う。今の「衆法合成」のことも念には念を入れて心得るべきである。「三界唯一心」を「衆法」と言うべきか。


/「海」と説くことは、仏法で多くこれを挙げる。仏性海・覚海・毘盧蔵海・無尽法界海・無尽蔵海・菩薩婆若海《智慧である》などとも言う。


/「印」はしるし、押し手(手印)とも言う、ものを決める意である。但し、ものを「印」するのと、「海」をそのまま「印」と使うのとは、違いがある。


/「三昧」は定門と言う、そのことのありさま□ □ □《割注:文字がない》が「三昧」であり、一つのことに専念して他のことを顧みないことを指して「三昧」と言うのである。今の「三昧」は「海印」である。日光三昧・月光三昧・一行三昧などということもある。人間界では、光を言うのに日月以上のものはなく、至らないところがないから「三昧」と言うのである。


「諸仏諸祖とあるにかならず海印三昧なり」と言う。この「三昧なり」という「なり」の言葉は、教などではおおかた三昧「あり」と使う。「三昧」を仏のところとして心得るのである。しかし、宗門では「諸仏諸祖」をそのまま「海印三昧」と使うから「三昧なり」とあるのである。


「三昧の游泳に、説時あり、証時あり、行時あり」と言う。「証」に限らず、智を言うのにも権智と言うことがある。これは他を導く智であり、他のためである。自行智というのは、今の『法華経』の意で、「唯一仏乗実相」の意味である。


達磨宗などは冷暖自知と言い、他に依らない智と思っているが、専ら吾我(自我)に対している智で、用いるべきではない。


/「説」「行」「証」と一般に立てるが、今「証」を中に置いて「証」に「行」を立てる考えは差し障りがない。但し、教家では決して教行証の位を取り乱して言うはずがないので、仏家の家の常としては教の所に行証も具え、行の所に教証を具え、三位を一体とする時、必ずしも何れかを前後とすることはないから、このように終にも置くのである。但し、仏祖の道に、必ず教行証はあるのである。


また、自証ということがあり、教でも「証は他に由らず」と説く。但し、それもやはり自証と言うだけであれば、教行を先において待つ証であるから「他に由らず」の言葉も甲斐がないのである。


/「海上行の功徳、その徹底行あり」と言う、

「説時あり、証時あり、行時あり」と、始めにあげられたのに、「海上行」「徹底行」などと言って教証の沙汰がないのは、どういうことか。


ただ、教行証は同じであるから、ただ「行」だけをあげても不足ということはない。だから「海上行」「徹底行」とあるのである。

この「海上行」「徹底行」は究竟即位(天台宗で説く六つの異なる仏の最高位)と心得るべきである。また、「海上」と言い「徹底」と言ったからといって、上だ底だなどと相対して説くのではない。上といっても底といっても、ただ「海印三昧」のありさまを言うのであるから、「深々海底行なりと海上行するなり」と言うのである。


《傍注:還源返本と談ずるときに、順流逆流と言う、還源逆流である。》

/「還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず」とは、生死の波浪を厭い捨てて、無為寂静に帰入しようと分限を定めて「願求する」のではない。だから、どういうことかと疑う「心行」ではないと言うのである。


/「透関破節」とは脱落の意味合いである。還源返本(源に還り本に返すこと)ではないのである。


/「諸仏諸祖の面々」とは、初めに「諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり」というのと同じことである。



〔『抄』私訳〕

「諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、行時あり。海上行の功徳、その徹底行あり。これを深々海底行なりと海上行するなり」とある。


この書き初めの「諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり」の言葉は、てにをはも合わないように思われる。「諸仏諸祖とあるは」とか、「諸仏諸祖なる時は」とか言いたいように思われる。そうであるのに、「諸仏諸祖」が「海印三昧」と言われる道理は、今の言葉が不足しているわけではない。


「この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、行時あり」と言う、この「游泳」の語は「海」の字縁から出されたか。結局、この「三昧」の正当什麼時には、「説」も「証」も「行」もあるのである。「海」を「説」とし、「海」を「証」とし、「行」とするからである。だから、「海上行の功徳、その徹底行あり」と言うのである。


「徹底行」とは、滞るものなく底まで徹っている意である。「徹底証」とも言うことができる。仏法の言葉は、みな「徹底」の道理である。「深々海底行」というのも「徹底行」と同じ意である。つまるところ、際限がない意である。


「流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。従来の透関破節、もとより諸仏諸祖の面々なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり」とある。


本当に「流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麼心行」ではないのである。「従来の透関破節」とは、関門を透過し節を打ち破ることで、解脱の言葉である。「諸仏諸祖の面々」は「もとより」「透関破節」であるといっても、今の「海印三昧」の一時の現成の時は、「海印三昧の朝宗」と言われるのである。


                           合掌

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