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赤ん坊は100%非思量の領域で生きている 『第十二坐禅箴』12-1-4c 〔『正法眼蔵』評釈〕

 「思量」「不思量底」「非思量」、それぞれどう違うのでしょうか?

例えば、手を打って「パン!」、あ、音がした!というのが思量です。

「パン!」、この音の実物にいるのが不思量底(思量していない今の様子)です。

「パン!」の音だけ、これが非思量(思量ではない実物の様子)です。


人間生活の中で基本になっているのは、必ず非思量の実物です。実物は人間の思量の及ぶところではありません。実物に触れているのに、人間は思量でそれを知りたがります。そのために、実物に触れていると思っていても、無色透明のコーティングのようなものがされており、仮想現実に触れているようなものです。人間の思量が加わっていない時が、その実物の本当の様子です。


近代脳科学によると、人間の生命活動の約8割は、思量以前つまり非思量の領域で行われていると言われています。ちなみに赤ん坊は100%不思量底にあり、非思量の領域で生命活動が100%行われていると。だから、仏道修行は幼児に学べとも言われてるのでしょう。



 「兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。しかあればすなはち、兀々地は仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり」とありますが、兀々地が兀々地を思量することができるなら、本当に坐っているのではありません。それでは、自分が坐っている様子をここに置いて、向こうの自分から自分を観察しているような坐り方をしているということになります。


またこれは、「兀々地」は、人間の思慮分別で取り扱う範囲を超え、桁違いに大きいと言っているのですね。



 「単伝(そのものがそのものを伝えること)とありましたが、手を打つ、「パン!」、これが「単伝です。「パン!」そのものが「パン!」そのものを伝える。他のものがこのものの様子を伝えることはできません。どんなものでも、必ずそのものがそのものの様子を伝えるようになっています。だから間違いが起きないのです。



                       合掌


非思量=思量ではない実物の様子 『第十二坐禅箴』12-1-4a




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