〔『正法眼蔵』原文〕
而今ニコンの大悟は、自己にあらず他己にあらず、
きたるにあらざれども填溝塞壑テンコウソクガクなり。
さるにあらざれども切忌随他覓セッキズイタミャク
《切に忌む、他に随つて覓モトむることを》なり。
なにとしてか恁麼なる。
いはゆる随他去ズイタコなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
今の大悟(大きな悟り)は、自己(自分の上に現れる自分の様子)にあるのでもなく、他己(自分の上に現れる他者の様子)にあるのでもなく、
やって来るのでもないけれども、
溝を填ウめつくし壑タニを塞フサいで一杯になるのである。
(而今の大悟は、自己にあらず他己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑
なり。)
大悟は自分から去るものではないけれども、
他者にしたがって求めるものでもないのである。
(さるにあらざれども切忌随他覓《切に忌む、他に随つて覓むることを》なり。)
どうして、このよう(而今の大悟は、自己にあらず、他己にあらず、きたるにあらず、さるにあらざれども、填溝塞壑なり、切忌随他覓なり)であるのか。
それは、大悟にしたがっていくからである。
(なにとしてか恁麼なる。いはゆる随他去なり)。
〔以上で、華厳宝智大師の言葉についての道元禅師の御解釈が終る。〕
合掌
大悟は去るものではないけれども、他者にしたがって求めるものでもない 『第十大悟』10-3-7b
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