〔抄私訳〕
「而今の大悟は、自己にあらず他己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑テンコウソクガク(みちみぞふさげれたるに)なり。さるにあらざれども切忌随他覓セッキズイタミャク《切に忌む、他に随つて覓モトむることを》なり。なにとしてか恁麼なる。いはゆる随他去ズイタコなり。」とある。
過去・現在・未来を立てて、過去は既に過ぎた、未来は未だ来ていないから、現在の「而今」を指すと理解するであろうが、今の「而今」は「大悟」を指すのである。
「自己にあらず他己にあらず」と言うのは、いかにもその意味合いがある。
「きたるにあらざれども填溝塞壑なり」とは、満足している姿、充足の意味である。
「さるにあらざれども切忌随他覓なり」とは、他に随って求めることを忌むというのである。
「随他覓ミャク(もとめる)」とは、通り一遍に人に随う様子と理解してはならない。つまるところ、「大悟」にしたがうということである。どうしてこうなるかと言えば、ここでまた、「随他去なり」と言うからである。
これは、言葉を変えたと思われるがただ同じ意味の言葉である。その理由は、「切忌随他覓」も「大悟」で、「随他去なり」も「大悟」であるからである。だから、言葉は違うけれどもただ同じ意味だと言うのである。「大悟」の上の「切忌随他覓」、「大悟」の上の「随他去なり」なのである。
〔聞書私訳〕
/「切忌随他覓」《せつにいむ、たにしたがってもとむることを》と言う、これは「大海は死屍シシを宿さず」という道理である。
「他に随う」ことはないけれど「忌む」と使うのである。
合掌
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