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悟りは得られないのか、得られるのか 『第十大悟』10-2-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

しかもかくのごとくなりといえども、さらに祖宗の懐業エゴウを参学すべし。


いはく、しばらく臨済に問モンすべし、不悟者フゴシャ難得ナントクのみをしりて、

悟者難得をしらずは、未足為足ミソクイソクなり。


不悟者難得をも参究せるといひがたし。


たとひ一人の不悟者をもとむるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目雍容ヨウヨウ、巍々堂々ギギドウドウなる、相見ショウケンしきたるやいまだしや。


たとひ大唐国裏に一人の不悟者をもとむるに難得なる、

を究竟とすることなかれ。


一人半人のなかに両三箇の大唐国を、もとめこゝろみるべし。


難得なりや、難得にあらずや。


この眼目ガンモクをそなへんとき、参飽サンボウの仏祖なりとゆるすべし。


〔『正法眼蔵』私訳〕

そうではあるけれども、

さらに進んで祖師が護持してきた仏法を身をもって学ぶべきである。

(しかもかくのごとくなりといえども、さらに祖宗の懐業を参学すべし。)


それでは、しばらく臨済に尋ねてみよう。

(いはく、しばらく臨済に問すべし、)


悟っていない者を探し求めても見つけられないということだけを知り、

悟った者を探し求めても見つけられないということを知らなければ、

不十分なのに十分だと誤ってしまうことになるであろう。

(不悟者難得のみをしりて、悟者難得をしらずは、未足為足なり。)


それでは、悟っていない者を探し求めても見つけられない、

つまりあらゆる人は悟っているという事実を深く究めたとは言えないのである。

(不悟者難得をも参究せるといひがたし。)


たとえ一人の悟っていない者を探し求めて見つけられなくても、

半人の悟っていない者がいて、落ち着いて穏やかで、堂々として威厳がある

そんな者と相い見マミえたことがあるか、まだか。

(たとひ一人の不悟者をもとむるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目雍容、巍々堂々なる、相見しきたるやいまだしや。)


たとえ世界中で一人の悟っていない者を探し求めて見つけられなくても、

つまりあらゆる人が悟っていても、それを仏法の究極としてはならない。

(たとひ大唐国裏に一人の不悟者をもとむるに難得なるを究竟とすることなかれ。)


一人、半人の中で、世界の二、三個を探し求めてみるべきである。

(一人半人のなかに両三箇の大唐国をもとめこゝろみるべし。)

〔人は小さく世界は大きいという既成概念を打破して、真実の自己を探求すべしというのである。〕


悟りは得られないのか、得られるのか。

(難得なりや、難得にあらずや。)


この事の核心を見抜く力を身につけたとき、

仏法を深く参究し完全に会得した仏祖であると認めることができるのである。

(この眼目をそなへんとき、参飽の仏祖なりとゆるすべし。)



                          合掌


悟ることは出来ないのか、出来るのか 『第十大悟』10-2-2b


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