スキップしてメイン コンテンツに移動

正9-1a『第九古仏心』第一段その1a〔釈尊以前の過去七仏より大鑑慧能禅師に至るまで四十人の古仏心である〕

『正法眼蔵第九古仏心』


第一段

〔『正法眼蔵』原文〕 

祖宗ソシュウの嗣法シホウするところ、七仏より曹谿ソウケイにいたるまで四十祖なり。


曹谿より七仏にいたるまで四十仏なり。


七仏ともに向上向下の功徳あるがゆゑに、曹谿にいたり七仏にいたる。


曹谿に向上向下の功徳あるがゆゑに、七仏より正伝し、

曹谿より正伝し、後仏に正伝す。


ただ前後のみにあらず、釈迦牟尼仏のとき、十方諸仏あり。


青原セイゲンのとき南嶽ナンガクあり、南嶽のとき青原あり。


乃至石頭セキトウのとき江西コウセイあり。


あひ罣礙ケイゲせざるは不礙フゲにあらざるべし。


かくのごとくの功徳あること、参究すべきなり。


〔『正法眼蔵』私訳〕 

祖師たちが法を嗣いできた(古仏心を自己のもとしてきた)ところは、

過去七仏(釈迦牟尼仏以前の七人の古仏心)より曹谿ソウケイ(大鑑慧能禅師)に至るまで四十祖(四十人の古仏心)であり、曹谿より過去七仏に至るまで四十仏(四十人の古仏心)である。

(祖宗の嗣法するところ、七仏より曹谿にいたるまで四十祖なり。

曹谿より七仏にいたるまで四十仏なり。)


過去七仏はみな向上向下(前後相通じ順逆一貫)の功徳があるから、

過去七仏より曹谿に至り、曹谿より過去七仏に至るのである。

(七仏ともに向上向下の功徳あるがゆゑに、曹谿にいたり七仏にいたる。)


曹谿に向上向下の功徳があるから、過去七仏より曹谿に正伝し、

曹谿から過去七仏に正伝し、前仏より後仏に正伝し、

後仏より前仏に正伝するのである。

(曹谿に向上向下の功徳あるがゆゑに、七仏より正伝し、曹谿より正伝し、後仏に正伝す。)

〔時間的には、過去現在未来にわたって古仏心のみである。〕


ただ時の前後だけではなく、釈迦牟尼仏の時に十方の世界に諸仏があり

また青原行思の時に南嶽懐譲があり、南嶽懐譲の時に青原行思があり、

或いは石頭希遷の時に馬祖道一があるのである。

(ただ前後のみにあらず、釈迦牟尼仏のとき、十方諸仏あり。

青原のとき南嶽あり、南嶽のとき青原あり。乃至石頭のとき江西あり。

〔空間的には、十方の世界にわたって古仏心のみである。〕


互いに妨げにならないのは、

どちらも古仏心と古仏心であるから妨げにならないのである。

(あひ罣礙せざるは不礙にあらざるべし。)


このような功徳があることを、身をもって究めるべきである。

(かくのごとくの功徳あること、参究すべきなり。)


 『第九古仏心』第一段その1b〔釈尊以前の過去七仏より大鑑慧能禅師に至るまで四十人の古仏心である〕 


                        合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

仏心』第一段その1b〔釈尊以前の過去七仏より大鑑慧能禅師に至るまで四十人の古仏心である〕


『第九古仏心』第一段その1b〔釈尊以前の過去七仏より大鑑慧能禅師に至るまで四十人の古仏心である〕

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村