〔『正法眼蔵』原文〕 雲巌道の「遍身是手眼」の出現せるは、「夜間背手摸枕子」を講誦 コウジュ するに、「遍身これ手眼なり」と道取せると参学する観音のみおほし。 この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり。 雲巌の「遍身是手眼」といふは、「手眼是身遍」といふにあらず。 遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。 身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪行市 サンダツギョウシ の手眼にあらざるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 雲巌が言う「遍身是れ手眼」が出現したのは、「夜間に手を後ろにして枕を探り求める」の言葉を読み唱えながら、「全身が手眼である」と言っていると考える観音 (仏道修行者) ばかり多くいる。 この観音はたとえ観音であっても、未だ仏法の道理を説き得ていない観音である。雲巌が「遍身是れ手眼」と言うのは、「手眼是れ身遍 (手眼が身に遍満している) 」という意味ではない。 遍はたとえ世界全体に遍満することであるとしても、身と手と眼と、 そのままである時は、遍によって遍満されるものではないのである。 身と手と眼にたとえ遍満する功徳があるとしても、市場を支配し意のままに動かすように無理に全体の真実を手だ眼だというのではないのである (遍身是手眼とは、遍満する手眼と遍満される法界があって、その法界を無理やり奪ってきて、手眼世界にしたのではないのである) 。 雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村