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人が夜間に手を後ろにして枕をまさぐるようなものである『第十八観音』18-4-1a(正法眼蔵)

第四段① 〔『正法眼蔵』原文〕   道吾いはく、「如人夜間背手摸枕子 ニョニンヤカンハイシュモチンス 」。   いはゆる宗旨 シュウシ は、たとへば、「人の夜間に手をうしろにして枕子を模索するがごとし」。 「模索する」といふは、さぐりもとむるなり。 「夜間」はくらき道得なり、なほ日裡看山 ニチリカンザン と道取せんがごとし。 「用手眼」は、「如人夜間背手摸枕子」なり。 これをもて「用手眼」を学すべし。 夜間を日裡よりおもひやると、夜間にして夜間なるときと、検点すべし。 すべて昼夜にあらざらんときと、検点すべきなり。 人の摸枕子せん、たとひこの儀すなはち観音の用手眼のごとくなる、 会取せざれども、かれがごとくなる道理のがれのがるべきにあらず。 〔『正法眼蔵』私訳〕  道吾は言う、「人の夜間に手を背にして枕子を摸すが如し」。  いわゆる根本の趣旨は、たとえば「人が夜間に手を後ろにして枕をまさぐるようなものである」というものである。 「模索する」とは、探り求めることである。「夜間」は暗いことを言っており、なお昼間に山を見ると言うようなことである。 「手眼を用いる」のは、「人が夜間に手を後ろにして枕を探り求めるようなものだ」というのである。 これによって「手眼を用いる」ことを学ぶべきである。 夜間を昼間から思いやるのと、夜間であってまさに夜間である時とを、 点検すべきである。 まったく昼夜でない時を、点検すべきである。 人が枕を探り求める、たとえこのことが観音が手眼を用いることと同じであると、理解できなくても、そのような道理は、逃れようとしても逃れられないのである。 人が夜間に手を後ろにして枕をまさぐるようなものである『第十八観音』18-4-1b(聞書抄)                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

人が夜間に手を後ろにして枕をまさぐるようなものである『第十八観音』18-4-1b(聞書抄)

〔『抄』原文〕  「道吾いはく、「如人夜間背手摸枕子」。 いはゆる宗旨は、たとへば人の夜間に手をうしろにして枕子を模索 モサク するがごとし。模索すといふは、さぐりもとむるなり。夜間はくらき道得なり。なほ日裡看山と道取せんがごとし。」  是は「如人夜間背手摸枕子」と云は「たとへば人の夜手をうしろにして枕をさぐるが如し」とあり、未手にあたりさぐり得たる枕なし。 「夜間に枕子を模索する」たとへに、「日裏看山」と云詞たとへになるべしとも不覚、不相応にきこゆ。 但仏法の上に「日裏」と云ひ「看山」と云はむは、打任て日の裏に看山とは不可心得。 仏法に「看山」「日裏」と云は、能見所見の儀不可有。 以山見山とも可心得。 然者、今の「夜間背手摸枕子」の あはひも、「夜間」には不見と許は不可思歟、「日裏看山」程に可心得なり。 一筋に「夜間」にて「枕子をさぐりもとめず」と許は不可心得事なり。 「用手眼は、如人夜間背手摸枕子なり。これをもて用手眼を学すべし。夜間を日裡よりおもひやると、夜間にして夜間なるときと、検点すべし。すべて昼夜にあらざらんときと、検点すべきなり。」  是は此「用手眼は、如人夜間背手摸枕子なり」とは、「手眼」はあれども、見色法事なし、取べき物なき所を云なり。 以之「用手眼」をも可学とは云なり。「夜間」を「日裏」に思ひやるは、猶能所もあるやうに聞ゆ、「昼夜」又各別なる様に聞ゆ。 只「夜間」にして「夜間」を思やる義もあるべし。 「夜間」の外に物なく交べき物なき道理なり。 総「昼夜」にあらざらむ時と云は、「夜間」と云も人天の「昼夜」にあらず。 「枕子」も「手を 背にしてさぐる」と云義も、我等が思ならはしたる義に非ず。 今以「手眼」道理、「昼夜」とも談ぜむときは、非「昼夜」ざらむ時とも云べきか。 所詮、こゝには三の義あるべし。 一には「夜間」を「日裏」より思やると、二には「夜間」なるとき「夜間」を思やると、三には総「昼夜」にあらざらむときの義となり。 雖有三重義更其義不可違。只同心なるべし。 「人の摸枕子せん、たとひこの儀すなはち観音の用手眼のごとくなる、会取せざれども、かれがごとくなる道理、のがれのがるべきにあらず。」   是は、「摸枕子」の道理、「たとひ観音の用手眼の如く」心得ずとも、「用手眼」の「道理のがれのがるべきにあらず」と云心地なり。たとひ仏性にあらずと「の...

「無限の手や眼」と雲巌が言い、道吾が証明した 『第十八観音』18-3a(正法眼蔵)

  第三段  〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌・道吾はかつて薬山に同参斉肩 セイケン より、すでに四十年の同行 ドウギョウ として、古今の因縁を商量するに、不是処は剗却 センキャ し是処は証明す。 恁麼しきたれるに、今日は「許多手眼」と道取するに、雲巌道取し、 道吾証明する、しるべし、両位の古仏、おなじく同道取せる「許多手眼」なり。 「許多手眼」は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。 いまは「用作麼 ヨウソモ 」を道吾に問取するなり。 この問取を、経師論師 キョウジロンジ ならびに十聖三賢 ジッショウサンケン 等の 問取にひとしめざるべし。 この問取は、道取を挙来せり、手眼を挙来せり。 いま「用許多手眼作麼」と道取するに、 この功業 クゴウ をちからとして 成仏する古仏新仏あるべし。 「使許多手眼作麼」とも道取しつべし、「作什麼 ソシモ 」とも道取し、 「動什麼」とも道取し、「道什麼」とも道取ありぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕  雲巌と道吾はかつて薬山のもとで肩を並べて修行して以来、 すでに四十年の同行 (一緒に修行する者) として、古今の公案を問答する際には、 正しくないところは削り取り、正しいところは証明した。 そのようにしてきて、今は「無限の手や眼 」 と雲巌が言い、 道吾が証明したのである。 知るといい、二人の古仏が、同じように言った無限の手や眼である。 無限の手や眼は、明らかに雲巌と道吾が共に参じているのである。 今は「用いて何をする (用作麼) 」と道吾に問うているのである。 この問いを、経典学者・論典学者並びに十聖三賢 (修行中の菩薩) などの問い ( 許多の手や眼 用いて何をするのか) と同じであるとしてはならない。 この問い は、仏法の道理をを取り上げており、 無限の手や眼を取り上げているのである。 今「用許多手眼作麼 (無限の手や眼を用いて何をする) 」と言うはたらきを力として 成仏する古仏や新仏があるのである。 この言葉は「無限の手や眼を使って何でもする」とも言え、「何でも作 ナ す」とも、「何でも動かす」とも、「何でも言う」とも言うことができるのである。                 「無限の手や眼」と雲巌が言い、道吾が証明した 『第十八観音』18-3b(聞書抄)                                ...

「無限の手や眼」と雲巌が言い、道吾が証明した 『第十八観音』18-3b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「許多手眼は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり。」   「許多手眼」の道は、「雲巌・道吾同参なり」とは、共に此詞をば「雲巌道取し、道吾証明す」とて許 ユルス v 之。今は「用作麼」の詞を「雲巌」の「道吾に問取する」事を云なり。 最初に「雲巌」の「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と云し詞の「作麼」を云なり。 「この問取を、経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし。」  此詞は、只打任て思付たるやうに「大悲菩薩」の「許多の手眼」を用ては何料 レウ ぞと問た らむには、「経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし」とは、争云べき。 いかなる我等も問取しつべき問取なり。この詞にて先やうあるらむとは心得ぬべし、普通 の問取とは不可心得。 「この問取は、道取を挙来せり、手眼を挙来せり。いま用許多手眼作麼と道取するに、この功業 クゴウ をちからとして成仏する古仏新仏あるべし。」   是は「用作麼」の詞を如先云問取と不可心得。「作麼」の詞一切に可渡、「作麼」の詞がやがて「道取」を「挙来」し「手眼を挙来」するなり。 此「用許多手眼作麼と道取するに、この功業をちからとして成仏」し「古仏新仏」となる云なり。 「作麼」の詞、法性に も仏性にも三昧だらににも、諸法にもあたるべし。即不中道理なり。 「使許 シコ 多手眼作麼とも道取しつべし、作什麼 ソシモ とも道取し、動什麼とも道取し、道什麼とも道取ありぬべし。」   是は、「用作麼」と云つる用の詞を取替て、必用の詞ならずとも、「使許多手眼作麼」とも「作什麼」とも「動什麼」とも「道什麼」とも云べしとなり。此義可渡万事なり。 〔『抄』私訳〕 〕 「許多手眼は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり」とある。   「許多手眼」の言葉は、「雲巌・道吾同参なり」とは、共にこの言葉を「雲巌が言い、道吾が証明する」といって、これを認めるのである。 今は「用作麼」の言葉を「雲巌」が「道吾に問取する」ことを言うのである。 最初に「雲巌」が「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と言った言葉の「作麼」を言うのである。 「この問取を、経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし」とある。   この言葉は、ただ一般に理解するように「大悲菩薩」が「許多の手眼」を用いるのは何のため...