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粥とするに足らなければ米湯とする『第十六行持下』16下-15-3

〔『正法眼蔵』原文〕

 山僧行業無取、忝主山門。豈可坐費常住、頓忘先聖附嘱。今者輙欲略学古人為住持体例。


《山僧行業サンゾウギョウゴウ取ること無し、忝カタジケなく山門に主たり、豈に坐ザながら常住を費して頓トミに先聖センショウの附嘱フショクを忘る可ベケんや。今は輙スナワち略ホボ古人の住持為る体例に学マナばんと欲す。》


 与諸人議定、更不下山、不赴斉、不発化主。唯将本院荘課一歳所得、均作三百六十分、日取一分用之、更不随人添減。可以備飯則作飯、作飯不足則作粥。作粥不足、則作米湯。新到相見、茶湯而已、更不煎點。唯置一茶堂、自去取用、務要省縁専一辨道。


《諸人と議定ギチョウす、更に山を下らじ、斉サイに赴イタらじ、化主ケシュを発せじ、唯本院の荘課ソウカ、一歳の所得を将モッて、均く三百六十分と作し、日に一分を取トリて之を用い、更に人に随いて添減せず、以て飯に備う可ベきは則ち飯と作し、飯と作して足らざれば則ち粥シュクと作し、粥と作して足らざれば則ち米湯ベイトウと作すべし、新到シントウ相見ショウケンも茶湯サトウのみ、更に煎点せじ、唯ただ一茶堂イッサドウを置て、自ら去サリて用モチう、務ツトメて縁を省いて専一辨道を要す》。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 山僧(私)は修行も至らぬ身でありながら、かたじけなくも寺の住持となった。

(山僧行業取無くして、忝く山門を主す。)


どうしていたずらに寺の常置の財物を費やし、にわかに釈迦牟尼仏の遺嘱(正法正伝と衆生済度)を忘れることなどできようか。

(豈に坐ら常住を費やし、頓に先聖の附属を忘る可けんや。)


今は仏祖方が住持としてやってこられた先例に学ぼうと思う。

(今は輙ち古人の住持たる体例に略学せんとす。)


大衆と合議して定めた。決して山を下らない。斎食に赴かず、寺に必要なものを勧募する僧を送らない、ただこの寺の荘園からあがる年貢を三百六十五等分して、毎日その一日分を取って用い、決して大衆の数によって増減することをしない、

(諸人と議定す、更に山を下らず、斉に赴かず、化主を発せず。唯、本院の荘課一歳の所得を将て、均しく三百六十分に作して、日に一分を取つて之を用ゐる、更に人に随つて添減せず。)


飯として足りる時は飯とし、飯とするに足らなければ粥とし、粥とするに足らなければ米湯とする、

(以て飯に備う可きは則ち飯と作し、飯の作して足らざれば則ち粥と作し、作粥不足なれば、則ち米湯と作す、)


新しく叢林に加わる雲水が住職に会う時は、茶湯だけ、さらに煎茶を点ずることはしない、ただ茶を用意した一室を設け自ら行って飲むこととする、できるだけ煩わしいことを省き、坐禅精進一つに打ち込むこととする。

(新到の相見は、茶湯のみなり、更に煎點せず。唯ただ一茶堂イッサドウを置て、自ら去サリて用モチう、務ツトメて縁を省いて専一辨道を要す。)



                             合掌

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