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隠山は死に至るまであえて人に会わず『第十六行持下』16下-15-2

〔『正法眼蔵』原文〕

 你不見、隱山至死不敢見人、趙州至死、不敢告人、匾擔拾橡栗為食、大梅以荷葉為衣、紙衣道者只披紙、玄太上座只著布、石霜置枯木堂与衆坐臥只要死了你心、投子使人弁米、同煮共餐、要得省取你事。且従上諸聖、有如此榜様、若無長処、如何甘得。


〈你ナンヂ見ずや、隱山は死に至イタルまで敢アエて人に見マミえず、趙州は死に至イタリて敢アエて人に告げず、匾擔ヘンタンは橡栗ショウリツを拾いて食ジキと為し、大梅ダイバイは荷葉を以て衣と為す、紙衣道者シエドウシャは只タダを披、玄太ゲンタイ上座は只布を著る、石霜は枯木堂を置オイて衆シュと坐臥し、只你が心シンを死了せんことを要す、投子トウスは人をして米ベイを弁じ、同く煮て共餐グサンせ使む、你が事を省取することを得んと要す。且く従上の諸聖、此の如ゴトキの榜様ボウヨウ有り、若し長処無んば、如何イカンが甘得カントクせん。〉


 諸仁者、若也於斯体究、的不虧人。若也不敢承当、向後深恐費力。

諸仁者ショニンシャ、若し也た斯ココに於て体究せば、的に不虧フキの人ヒトなり、若し也た敢アエて承当ジョウトウせずんば、向後コウゴ深く恐くは費力ヒリキせん。〉



〔『正法眼蔵』私訳〕                 

 あなたたちは聞いたことはないか、隠山(潭州竜山)は死に至るまであえて人に会わず、趙州従諗ジョウシュウジュウシンは死に至るまであえて人に告げず、匾担暁了ヘンダンギョウリョウはとちの実や栗を拾って食料とし、大梅法常は蓮の葉を衣とし、紙衣道者(克符)はただ紙を着、玄太上座(南嶽玄泰)はただ木綿や麻などの布を着た、

(你見ずや、隱山は死に至まで て人に見マミえず、趙州は死に至て て人に告げず、匾擔は橡栗を拾つて食とし、大梅は荷葉を以て衣とし、紙衣道者は只だ紙を披る、玄太上座は只だ布を著る、)


石霜慶諸セキソウケイショは枯木堂(僧堂)を建てて大衆と一緒に坐臥し、

ただ大衆の妄想分別心を死にきることを求めた、

(石霜は枯木堂を置きて衆と予に坐臥す、只你が心を死了せんことを要す、)


投子大同は大衆一人一人に自分で食べるお米をととのえさせ、それを一緒に炊いて一緒に食べていた、それは大衆が諸縁万事を省いて坐禅弁道に専念するためである。

(投子は人をして米を弁じ、同煮共餐せしむ、你が事を省取することを要得す。)


以上あげた八人の祖師方には、このような仏祖の目印ともなるべき行持の仕方があったのである。もし得るところがなければ、どうしてこのような修行を甘んじて行うことができようか。

(且く従上の諸聖、此の如くの榜様有り。若し長処無くんば、如何甘得せん。)


あなたたちが、もしここにおいて体得するなら、全く欠けるところのない人である。もし合点できなければ、今後おそらくは無駄な努力を重ねることになろう。

(諸仁者、若也斯に於て体究すれば、的に不虧の人なり、

若し也たあえて承当を肯せずは、向後深く恐らくは費力せん。)



                             合掌

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