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潙山の当時の行持を静かに思いやるべきである『第十六行持下』16下-14-2

〔『正法眼蔵』原文〕

 潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。


おもひやるといふは、わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。


深夜のあめの声、こけをうがつのみならんや、

巌石を穿却センキャクするちからもあるべし。


冬天のゆきの夜は、禽獸もまれなるべし、

いはんや人煙ジンエンのわれをしるあらんや。


命をかろくし法をおもくする行持にあらずは、しかあるべからざる活計なり。


薙草チソウすみやかならず、土木いとなまず。


ただ行持修練し、辨道功夫あるのみなり。


あはれむべし、正法伝持の嫡祖チャクソ、いくばくか山中の嶮岨ケンソにわづらふ。


潙山をつたへきくには、池あり、水あり、こほりかさなり、きりかさなるらん。


人物ニンモツの堪忍すべき幽棲ユウセイにあらざれども、仏道と玄奥ゲンオウと、

、成ずることあらたなり。


かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤勞すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こころあらん晩学、いかでかそのかみの潙山を、

目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 潙山の当時の行持を、静かに思いやるべきである。

思いやるとは、自分が今潙山に住んでいるように思うことである。

(潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり、おもひやるといふは、

わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。)


深夜の雨の音は、苔を穿つだけでなく、巌石をえぐる力もあり、

冬天の雪の夜は、鳥や獣も姿を見せないほどの厳しい寒さである。

まして煙立つ人里に自分を知る者はいないであろう。

(深夜のあめの声、こけをうがつのみならんや、巖石を穿却するちからもあるべし、

冬天のゆきの夜は、禽獸もまれなるべし、いはんや人煙のわれをしるあらんや。)


命を軽くし法を重んじる行持でなければ、そのような修行生活はつとまるものではなく、土地を切り開くための草刈りを急がず、土木を営むこともなく、

ただ行持を修練し、坐禅弁道をつとめるのみである。

(命をかろくし法をおもくする行持にあらずば、しかあるべからざる活計なり、

薙草すみやかならず、土木いとなまず、ただ行持修練し、辨道功夫あるのみなり。)


お気の毒なことである、正法を受け伝え護持する祖師は、どれほど山中の険しさに苦労されたことであろうか。潙山のことを伝え聞くには、池があり水があり、氷が重なり、霧が重なる所のようである。とても人の堪え忍べる幽居ではないが、〔潙山和尚の行持のために山残らずが〕仏道の玄奥と化してしまい、

あらたかな神霊の境となってしまったのである。

(あはれむべし正法伝持の嫡祖、いくばくか山中の嶮岨にわづらふ。潙山をつたへきくには、

池あり水あり、こほりかさなり、きりかさなるらん。人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、

仏道と玄奥と化成することあらたなり。)

〔『傘松道詠』にある「山のいろ谿のひびきもみなながらわが釈迦牟尼のこゑとすがたと」の偈と同様の心風景ではないでしょうか。〕


 このように難儀を耐え忍んで行持して来た真実の言葉を見聞するのは、

この身を安楽にしていて見聞すべきものではないが、その行持が報謝すべき行持であると知らないので、取り敢えず安易な気持ちで聞いたとしても、志のある後進の人たちは、今自分がその艱難な行持をしているかのように想いやれば、

潙山和尚を気の毒に思わないものはないであろう。

(かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤勞すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こころあらん晩学、いかでかそのかみの潙山を、目前のいまのごとくおもひやりて、あはれまざらん。


                             合掌

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