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潙山の非常に険しい山中に入って、鳥や獣を友とし草庵を結んで修行を積んだ 『第十六行持下』16下-14-1

〔『正法眼蔵』原文〕

 大潙山ダイイサン大円禅師は、百丈の授記より、

直に潙山の峭絶イゼツにゆきて、鳥獣為伍チョウジュウイゴして結草修練シュレンす。


風雪を辞労することなし。橡栗充食ショウリジュウジキせり。堂宇なし、常住なし。


しかあれども、行持の見成すること四十来年なり。


のちには海内カイダイの名藍メイランとして龍象蹴踏リュウゾウシュウトウするものなり。


 梵刹ボンセツの現成を願ガンぜんにも、人情をめぐらすことなかれ、

仏法の行持を堅固にすべきなり。


修練ありて堂閣なきは古仏の道場なり、露地樹下の風フウ、とほくきこゆ。


この処在、ながく結界となる。


まさに一人の行持あれば、諸仏の道場につたはるなり。


末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるゝことなかれ。


仏祖いまだ堂閣をねがはず。


自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍ショウランを結構する、

またく諸仏に仏宇ブツウを供養せんとにはあらず、

おのれが名利ミョウリの窟宅クッタクとせんがためなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 大潙山大円禅師(潙山霊祐)は、百丈懐海禅師から授記(成仏の予言)を受けてから、ただちに潙山の非常に険しい山中に入って、

鳥や獣を友とし草庵を結んで修行を積んだ。

大潙山大円禅師は、百丈の授記より、直に潙山の峭絶にゆきて、鳥獸爲伍して結草修練す。)


風雪をものともせず、とちの実や栗の実を食に充てた。

(風雪を辞労することなし。橡栗充食せり。)


建物もなく、寺の財物もなかった。

(堂宇なし、常住なし。)


そうではあったが、行持を務めること四十年余りである。

(しかあれども、行持の見成すること四十來年なり。)


後には天下に名高い修行道場として、

優れた修行者たちが足を踏み入れるようになったのである。

(のちには海内の名藍として龍象蹴踏するものなり。)


寺の建立を願うとしても、人情を巡らすことがあってはならず、

仏法の行持を堅固にしなければならない。

(梵刹の現成を願ぜんにも、人情をめぐらすことなかれ、仏法の行持を堅固にすべきなり。)


修錬があって立派な建物がないのは仏祖方の道場であり、

露わな地や樹の下で坐禅するという宗風は、遠くまで聞こえている。

(修練ありて堂閣なきは古仏の道場なり、露地樹下の風、とほくきこゆ。)


そしてこの場所は、長く聖域となる。

(この處在、ながく結界となる。)


正に一人の行持があれば、諸仏の道場に伝わるのである。

(まさに一人の行持あれば、諸仏の道場につたはるなり。)


末世の愚人は、徒らに立派な建物を造ることに疲れてはならない。

(末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるることなかれ。)


仏祖は立派な建物を造ることを願わない。

(仏祖いまだ堂閣をねがはず。)


自己の法の眼が明らかにならないのに、いたずらに立派な寺を建立しようと考えるのは、全く諸仏に仏を祀る建物を供養しようというのではなく、

自らの名聞利養の住み家とするためである。

(自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍を結構する、またく諸仏の仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんがためなり。)


                             合掌

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