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行持がある一日は、諸仏の生活である『第十六行持下』16下-8-5

〔『正法眼蔵』私訳〕

 このゆゑに、寒苦をおづることなかれ。

寒苦いまだ人をやぶらず、寒苦いまだ道をやぶらず。


ただ不修フシュをおづべし、不修それ人をやぶり、道をやぶる。


暑熱をおづることなかれ、暑熱いまだ人をやぶらず、

暑熱いまだ道をやぶらず。


不修よく人をやぶり、道をやぶる。


麦をうけ、蕨ワラビをとるは、道俗の勝躅ショウチョクなり。


血をもとめ、乳をもとめて、鬼畜にならはざるべし。


たゞまさに行持なる一日は、諸仏の行履アンリなり。


 

〔『正法眼蔵』私訳〕

それ故に、寒苦を恐れてはならない。

いまだ寒苦が人を壊コワしたことも、寒苦が仏道を壊したこともない。

(このゆゑに、寒苦をおづることなかれ。

寒苦いまだ人をやぶらず、寒苦いまだ道をやぶらず。)


ただ修行しないことを恐れるべきである。

修行しないことが人を壊し、仏道を壊すのである。

(ただ不修をおづべし、不修それ人をやぶり、道をやぶる。)                          


だから、暑熱を恐れてはならない。

いまだ暑熱が人を壊したことはない、暑熱が仏道を壊したこともない。

(暑熱をおづることなかれ。暑熱いまだ人をやぶらず。暑熱いまだ道をやぶらず。)      


修行しないことが人を壊し、仏道を壊すのである。

(不修よく人をやぶり、道をやぶる。) 


釈尊が麦の供養を受けて一夏を過ごしたことや、兄弟が山中に隠れてわらびを取って過ごしたことは、出家と俗人の勝れた先例である。

(麦をうけ、蕨をとるは、道俗の勝躅なり。)     


血を求め乳を求めて、餓鬼や畜生の真似をしてはいけない。

(血をもとめ、乳をもとめて、鬼畜にならはざるべし。)                                                  


ただ正に行持がある一日は、諸仏の生活である。

(たゞまさに行持なる一日は、諸仏の行履なり。)




            合掌


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