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身命を顧みずに聞法すれば、その聞法は成熟するのである『第十六行持下』16下-8-4

 〔『正法眼蔵』原文〕

 西天竺国には、髑髏をうり髑髏をかふ婆羅門の法、ひさしく風聞フウモンせり。


これ聞法の人の髑髏形骸の功徳おほきことを尊重するなり。


いま道のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。


身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟ジョウジュクするなり。


この髑髏は、尊重すべきなり。


いまわれら、道のためにすてざらん髑髏は、他日にさらされて野外ヤゲにすてらるとも、たれかこれを礼拝せん、たれかこれを売買せん。


今日の精魂ショウコン、かへりてうらむべし。鬼の先骨をうつありき、

天の先骨を礼ライせしあり。


いたづらに塵土に化するときをおもひやれば、

いまの愛惜アイジャクなし、のちのあはれみあり。


もよおさるゝところは、みん人のなみだのごとくなるべし。


いたづらに塵土に化して人にいとはれん髑髏をもて、

よくさいはひに仏正法を行持すべし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 西インド国には、髑髏を売り買いする婆羅門の法があると、

久しく伝え聞いている。

(西天竺国には、髑髏をうり髑髏をかふ婆羅門の法、ひさしく風聞せり。)                


これは法を聞いた人の髑髏の功徳が大きいことを尊重するからである。

(これ聞法の人の髑髏形骸の功徳おほきことを尊重するなり。)                            


今、仏道のために身命を捨てなければ、聞法の功徳はやって来ない。

(いま道のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。)                              


身命を顧みずに聞法すれば、その聞法は成熟するのである。

(身命をかえりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり。)                      


この人の髑髏は尊重すべきである。

(この髑髏は、尊重すべきなり。)             


今我々の、仏道のために身命を捨てなかった髑髏は、

いつの日か晒されて野外に捨てられても、誰がこれを礼拝するであろうか、

誰がこれを売り買いするであろうか。

(いまわれら、道のためにすてざらん髑髏は、他日にさらされて野外にすてらるとも、

だれかこれを礼拝せん、だれかこれを売買せん。)    


今日のたましいが聞法しなかったことを、

振り返って恨むことになるであろう。

(今日の精魂、かへりてうらむべし。)      


鬼神が〔生前父母に仕えず三宝を敬わなかった〕自分の故身モトノミ(骨)を鞭打ったことがあった。また、天人が〔生前父母に仕え三宝を敬まった〕自分の故身(骨)を礼拝したことがあった。

(鬼の先骨をうつありき、天の先骨を礼せしあり。)                      


死んで土に還る時のことを思えば、今の愛惜の心は無くなり、

死んだ後の髑髏に対してかわいそうだと思う心が起こるのである。

(いたすらに塵土に化するときをおもひやれば、いまの愛惜なし、のちのあはれみあり。)        


催される涙は、無駄に死んでいった人の屍を見る人の涙のようである。

(もよおさるゝところは、みん人のなみだのごとくなるべし。)               


死んで土に還って人に嫌われる髑髏となるこの身で、

幸いにも会うことが出来た仏の正法を行持しなければならない。

(いたづらに塵土に化して人にいとはれん髑髏をもて、

よくさいわひに仏正法を行持すべし。)                                 



             合掌


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