スキップしてメイン コンテンツに移動

香厳禅師:この身が墓の中のチリとなることを知らない『第十六行持下』16下-8-1

 〔『正法眼蔵』原文〕

 香厳禅師いはく、

  百計千方只為身、   《百計ヒャクケイ千方センボウ只身の為なり、

  不知身是塚中塵。    知らず、身は是れ塚の中の塵なること。

  莫言白髪無言語、    言ふこと莫れ白髪に言語ゴンゴ無しと、

  此是黄泉伝語人。    此れは是れ黄泉伝語コウセンデンゴの人なり。》


しかあればすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、

つひにはこれ塚中一堆チョウチュウイッタイの塵チリと化するものなり。


いはんやいたづらに小国の王民につかはれて、東西に馳走チソウするあひだ、

千辛万苦センシンバンクいくばくの身心をかくるしむる。


義によりては身命をかろくす、殉死ジュンシの礼わすれざるがごとし。


恩につかはるゝ前途、たゞ暗頭アントウの雲霧なり。


小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。


をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。


いま正法にあふ、百千恒沙ゴウシャの身命をすてても正法を参学すべし。


いたづらなる小人ショウニンと、広大深遠ジンノンの仏法と、

いづれのためにか身命をすつべき。


賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

香厳智閑禅師は言った、

(香厳禅師いはく、)


  ありとあらゆる手立てを巡らすことはただ我が身のためであるが、

   (百計千方只身の為なり、)

  

  この身が墓の中のチリとなることを知らない。 

   (知らず、身は是れ塚の中の塵なること。)

  

  白髪の人には言葉などないと、言ってはならない、

   (言ふこと莫れ白髪に言語ゴンゴ無しと、)

  

  彼は冥土の言づてを持ってくる人である。

   (此れは是れ黄泉伝語の人なり。)

 

そうであるから、我が身を惜しんでたとえありとあらゆる手立てを尽くしたとしても、結局は墓の中の一塊の土となってしまうものである。

(しかあればすなはち、をしむに、たとえ百計千方をもてすといふとも、

つひにはこれ塚中一堆の塵と化するものなり。)                  


まして徒に小国の王の民に使われ、あちこち駆けずり回って、

艱難辛苦に耐えどれほど身心を苦しめるというのか。

(いはんやいたづらに小国の王民につかはれて、東西に馳走するあひだ、

千辛万苦いくばくの身心をかくるしむる。)                                    


義によって自分の身命を軽くし、殉死の礼を遂げるものまである。

(義によりては身命をかろくす、殉死の礼わすれざるがごとし。)              


恩に使われる者の前途は、正に暗い雲霧のように一寸先も分からない。

(恩につかはるゝ前途、たゞ暗頭の雲霧なり。)                     


このように小臣に使われ、世俗に身命を捨てる者は、昔から多い。

(小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。)                              


惜しむべき人の身体である、仏道の器となれたはずなのに。

(をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。)                                                 


今、正法に出会ったのだから、無数の身命を捨てても正法を学ぶべきである。

(いま正法にあふ。百千恒沙の身命をすてても正法を参学すべし。)      


つまらない小人と、広大で深遠な仏法と比べ、どちらのために身命を捨てるべきか。賢い人も愚かな人もみな身の振り方に苦労することはない。

(いたづらなる小人と、広大深遠の仏法と、いずれのためにか身命をすつべき。

賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。)         



              合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村 

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

華もまたかつて生じたことがない『第十四空華』14-4-8a

〔『正法眼蔵』原文〕  祖師いはく、「華亦不曽生 ケヤクフスンショウ 」。 この宗旨の現成、たとへば華亦不曽生、花亦不曽滅なり。 花亦不曽花なり、空亦不曽空の道理なり。 華時の前後を胡乱 ウロン して、有無の戯論 ケロン あるべからず。 華はかならず諸色にそめたるがごとし、 諸色かならずしも華にかぎらず。 諸時また青黄赤白 ショウオウシャクビャク 等のいろあるなり。 春は花をひく、華は春をひくものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 祖師 (二祖慧可大師) は言う、 「華もまたかつて生じたことがない」。 〔祖師いはく、「華亦不曽生」。〕 これが現わす根本の趣旨は、たとえば、華もまたかつて生じたことがなく、花もまたかつて滅したことがないということである。 〔この宗旨の現成、たとへば華亦不曽生、花亦不曽滅なり。〕 花もまたかつて花ではなく、空もまたかつて空ではない道理である。 〔花亦不曽花なり、空亦不曽空の道理なり。〕 華が咲くときの前後を間違って考え、昨日までは無かった華が今日有るかのような無意味な議論をしてはならない。 〔華時の前後を胡乱して、有無の戯論あるべからず。〕 華は必ずいろいろの色に染まっているようであるが、 いろいろの色は必ずしも華に限ったことではない。 〔華はかならず諸色にそめたるがごとし、諸色かならずしも華にかぎらず。〕 〔春に春の色、秋に秋の色があるように、〕 それぞれの時にまた青・黄・赤・白などの色があるのである。 〔諸時また青黄赤白等のいろあるなり。) 春は華を咲かせ、華は春を導くものなのである。 〔春は花をひく、華は春をひくものなり。〕 華もまたかつて生じたことがない『第十四空華』14-4-7b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村