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過去世において正法を学び坐禅をつとめた種子『第十六行持下』16下-7

 〔『正法眼蔵』原文〕

 また真丹国インタンコクにも、祖師西来よりのち、

経論に倚解して、正法をとぶらわざる僧侶おほし。


これ経論を披閲すといへども経論の旨趣にくらし。


この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。


今生つひに如来の真訣をきかず、如来の正法をみず、

如来の面授にてらされず、如来の仏心を使用せず、

諸仏の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。


隋・唐・宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし、ただ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、あるは算沙の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。


愚蒙のやから、ひさしく経論の草庵に止宿するのみなり。


しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辞せずといはず、

初祖西来する玄風、いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋を、

をしんでつひになににかせん。 



〔『正法眼蔵』私訳〕

 また中国でも、初祖がインドから来た後でも、経典や論書の研究だけしていて、初祖が伝えた仏祖正伝の法、つまり坐禅を学ばない僧侶が多くいた。

(また真丹国にも、祖師西来よりのち、経論に倚解して、正法をとぶらわざる僧侶おほし。)


これらの人は、経典や論書を開いて読んでも、その真意に暗かった。

(これ経論を披閲すといへども経論の旨趣にくらし。)


このように正法を学ぶことが出来ない悪業は今生の業の報いだけではなく、

過去世の悪業の報いである。

(この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。)


今生で結局如来の真意を聞かず、如来の正法を見ず、

如来の面授(師と弟子が目の当たりに相い対して親しく正法を授受すること)に会わず、

如来の仏心を用いず、諸仏の教えを聞かない(この身が諸仏の教えにならない)

のは、悲しむべき一生である。

(今生つひに如来の真訣をきかず、如来の正法をみず、如来の面授にてらされず、

如来の仏心を使用せず、諸仏の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。) 


隋、唐、宋の時代に、このような人たちは多かった。


過去世において正法を学び坐禅をつとめた種子シュウジ

(すべての現象を生じさせる力)のある人は、思いがけず仏門に入った者も、

あるいは砂を算えるような経論の学問を止めて初祖の法孫となった者も、

ともに優れた資質の人であり、最上の人であり、正しい仏の種子である。

(隋・唐・宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし、ただ宿殖般若の種子ある人は、

不期に入門せるも、あるは算沙の業を脱して、祖師の遠孫となれりしは、

ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。)


愚かで道理の分からない連中は、

長い間経論の粗末な学問に止まっているだけである。

(愚蒙のやから、ひさしく経論の草庵に止宿するのみなり。)


それなのに、このような危険で困難な国の境を嫌わず拒まず、

初祖が西来した初祖の奥深い教えの風が、今もなお盛んに吹いているのに、

我が身を惜しんでどうしようというのか。

(しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辞せずといはず、初祖西来する玄風、

いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋を、をしんでつひになににかせん。)



        合掌


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