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己の悪業に引かれて他国をさまようのである『第十六行持下』16下-6-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

 梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ。

至愚のはなはだしきなり。

悪業アクゴウのひくによりて、他国に跉跰するなり。

歩々に謗法ホウボウの邪路におもむく、歩々に親父シンプの家郷を逃逝トウゼイす。

なんだち西天にいたりてなんの所得かある。

たゞ山水に辛苦するのみなり。

西天の東来する宗旨を学せずは、仏法の東漸トウゼンをあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。

仏法をもとむる名称ミョウショウありといへども、仏法をもとむる道念なきによりて、西天にしても正師ショウシにあわず、いたずらに論師経師にのみあへり。

そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、正法をもとむる正心ショウシンなきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。

西天にいたりて正師をみたるといふたれか、その人いまだきこえざるなり。

もし正師にあはば、いくそばくの名称をも自称せん。

なきによりて自称いまだあらず。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 初祖が西来した梁の普通年間からのちも、依然として西方インドに行く者がいたが、一体何のためか、愚かにもほどがある。

(梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ、至愚のはなはだしきなり。)


己の悪業に引かれて他国をさまようのである。

(悪業のひくによりて他国に跉跰するなり。)


一歩一歩、正法を謗る邪路に向かい、

一歩一歩、父親の故郷から逃げていくのである。

(歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。)


お前達は西天に行って何を得たというのか、

ただ山を登り河を渡り旅で苦労したでけである。

(なんだち西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。)


西天の仏法が東方に来た真意を学ばないのは、

仏法の東漸をあきらめないからであり、徒に西天で路に迷うだけである。

(西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。)


仏法を求める名誉の称号があるといっても、仏法を求める道心がないから、西天に行っても正師に会わず、意味もなく論師や経師にだけ会うのである。

(仏法をもとむる名称ありといへども、仏法をもとむる道念なきによりて、

西天にしても正師にあはず、いたづらに論師経師にのみあへり。)


その理由ワケは、正師は西天にも現に存在しているけれども、

正法を求める正しい心がないから、正法はお前達の手に入らないのである。

(そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、

正法をもとむる正心なきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。)


西天に行って正師に会ったというどんな人がいるか、

そういう人の話をまだ聞いたことがないのである。

(西天にいたりて正師をみたるといふたれか、その人いまだきこえざるなり。)


もし正師に会ったならば、数多くその名誉を自称するはずであるが、

そういうことがないから誰も自称しないのである。

(もし正師にあはば、いくそばくの名称をも自称せん、なきによりて自称いまだあらず。)



         合掌


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