スキップしてメイン コンテンツに移動

達磨大師は、釈尊第二十八世の附法なり『第十六行持下』16下-6-1

〔『正法眼蔵』原文〕                             

初祖は、釈尊第二十八世の附法なり。


道にありてよりこのかた、いよいよおもし。


かくのごとくなる大聖至尊ダイショウシイソン、なほ師勅によりて、

身命をおしまざるは伝法のためなり、救生グショウのためなり。


真丹国には、いまだ初祖西来よりさきに嫡々テキテキ単伝の仏子をみず、嫡々面授の祖面を面授せず、見仏いまだしかりき。


のちにも初祖の遠孫オンソンのほか、さらに西来せざるなり。


曇花ドンゲの一現はやすかるべし、年月をまちて算数サンジュしつべし、

初祖の西来はふたゝびあるべからざるなり。


しかあるに、祖師の遠孫と称するともがらも、楚国の至愚にゑうて、

玉石ギョクセキいまだわきまへず、経師キョウジ論師も斉肩すべきとおもへり。


少聞薄解ショウモンハクゲによりてしかあるなり。


宿殖般若シュクジキハンニャの正種ショウシュなきやからは祖道の遠孫とならず、

いたづらに名相ミョウソウの邪路に跉跰レイヘイするもの、あはれむべし。 



〔『正法眼蔵』私訳〕

 初祖は、釈尊から第二十八代目の

正法眼蔵涅槃妙心を伝授された仏弟子である。

(初祖は、釈尊第二十八世の附法なり。)


仏道にあるようになって以来、ますます尊くなった。

(道にありてよりこのかた、いよいよおもし。)


このように尊い大聖人が、さらに師の命に従って身命を惜しまず

中国へ渡ったのは、法を伝え衆生を救うためであった。

(かくのごとくなる大聖至尊、なほ師勅によりて身命ををしまざるは、

伝法のためなり、救生のためなり。)


中国には初祖が渡来する以前に、仏法を祖師からそのまま受け継いだ

仏弟子はおらず、師と弟子が向かい合って仏法を授受することはなく、

従って、仏に作ることはなかった。

(真丹国にはいまだ初祖西来よりさきに、嫡嫡単伝の仏子をみず、

嫡嫡面授の祖面を面授せず、見仏いまだしかりき。)


その後も初祖の法孫以外は、西来した人は一人もいなかったのである。

(のちにも初祖の遠孫のほか、さらに西来せざるなり。)                            


三千年に一度咲くという優曇華ウドンゲが咲くのはたやすいことである、

年月を数えて待てばよいからである。

しかし、初祖の西来は、もう二度とないのである。

(曇花の一現は、やすかるべし、年月をまちて算数しつべし、

初祖の西来は、ふたたびあるべからざるなり。)


それにもかかわらず、初祖の法孫と称する連中も、

楚国の愚かさに酔って玉と石の見分けがつかず、

経典や論書の講師も初祖と肩を並べられるものと思っている。

(しかあるに祖師の遠孫と称するともがらも、楚国の至愚にゑふて玉石いまだわきまへず、

経師論師も斉肩すべきとおもへり。)


仏法を聞くことが少なく理解が浅いからそうなるのである。

(少聞薄解によりてしかあるなり。)


過去世に正しい智慧の種子を植えなかった連中が、初祖の仏道の法孫とならず、いたずらに文字面を詮索する誤った道をさまようことになるのであり哀れなことである。

(宿殖般若の正種なきやからは、祖道の遠孫とならず、

いたづらに名相の邪路に跉跰するものあはれむべし。)



         合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村 

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村