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自己の貴賤を先ず明らかにすべきである『第十六行持下』16下-5-3

〔『正法眼蔵』原文〕 

おもくかしこからん、なほ法のためにをしむべからず、

いはんや卑賤の身命をや。


たとひ卑賤なりといふとも、為道為法のところにをしまずすつることあらば、

上天よりも貴なるべし、輪王よりも貴なるべし、

おほよそ天神地祇テンジンチギ、三界衆生よりも貴なるべし。


しかあるに、初祖は南天竺国香至王の第三皇子オウジなり。


すでに天竺国の帝胤テイインなり、皇子なり。


高貴のうやまふべき、東地辺国には、

かしづきたてまつるべき儀もいまだしらざるなり。


香なし、花なし、坐褥ザニクおろそかなり、殿台デンダイつたなし。


いはんやわがくには、遠方オンポウの絶岸なり、

いかでか大国の皇オウをうやまふ儀をしらん。


たとひならふとも、迂曲ウゴクしてわきまふべからざるなり。


諸侯と帝者と、その儀ことなるべし。


その礼も軽重キョウジュウあれども、わきまえしらず。


自己の貴賤をしらざれば、自己を保任ホニンせず。


自己を保任せざれば、自己の貴賤もともあきらむべきなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

身分が高く賢い人は、やはり法のために身を惜しんではならない。

(おもくかしこからん、なほ法のためにおしむべからず。)


まして卑しい身では尚更である。

(いはんや卑賤の身命をや。)


たとえ卑しい身であっても、道のあるところ法のあるところに、

身を惜しまず捨てるならば、天上界の人よりも貴く、転輪聖王よりも貴く、

総じて天地の神々よりも、三界の衆生よりも貴いのである。

(たとえ卑賤なりというとも、為道為法のところに、おしまず、すつることあらば、上天よりも貴なるべし、輪王よりも貴なるべし、おほよそ、天神地祇、三界衆生よりも貴なるべし。)


それなのに、初祖は南インド国、香至王の第三皇子である。

(しかあるに、初祖は南天竺国、香至王の第三皇子なり。)


まぎれもなくインド国の帝王の血筋であり、皇子である。

(すでに天竺国の帝胤なり、皇子なり。)


高貴な人を敬うべきであるが、インドから遠く隔たった東方の国(中国)では、お仕えすべき礼法も知られていないのである。

(高貴のうやまふべき、東地辺国には、かしづきたてまつるべき儀もいまだしらざるなり。)


もてなす香もなく、花もなく、敷物も粗末で、殿堂もみすぼらしい。

(香なし、花なし、坐褥おろそかなり、殿台つたなし。)


まして我が日本国は、海を隔てた遠方の地であり、

どうして大国の王を敬う礼法を知り得ようか。

(いはんやわがくには、遠方の絶岸なり。いかでか大国の皇をうやまふ儀をしらん。)


たとえ学んでも、回りくどくて弁えることができないであろう。

(たとえならうとも、迂曲してわきまうべからざるなり。)


諸侯(大名)と帝王とでは、その礼法は異なり軽重があるが、

それを弁え知ることはできない。

(諸侯と帝者と、その儀ことなるべし、その礼も軽重あれどもわきまへしらず。)


自己の貴賤を知らなければ、

真実の自己(正法眼蔵涅槃妙心である自己)を保持することはできない。

(自己の貴賤をしらざれば、自己を保任せず。)


真実の自己を保持することができなければ、

自己の貴賤を先ず明らかにすべきである。

(自己を保任せざれば、自己の貴賤もともあきらむべきなり。)



          合掌


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