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学ぼうとしても、師が得られない悲しみがある『第十六行持』16-22-2

〔『正法眼蔵』原文〕

  いま有道ウドウの宗匠シュウショウの会をのぞむに、

真実請参シンジツ シンサンせんとするとき、そのたよりもとも難辨ナンベンなり。

ただ二十三十箇の皮袋ヒタイにあらず、百千人の面々なり。


おのおの実帰ジッキをもとむ、授手の日くれなんとす、打舂ショウの夜あけなんとす。

あるひは師の普説するときは、わが耳目なくしていたづらに見聞をへだつ。

耳目そなはるときは、師また道取をはりぬ。


耆宿尊年ギシュクソンネンの老古錐ロウコスイ、すでに拊掌笑呵呵フショウショウカカのとき、

新戒晩進シンカイバンシンのおのれとしては、むしろのすゑを接するたより、

なほまれなるがごとし。


堂奥ドウオウにいるといらざると、師決シケツをきくときかざるとあり。


光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし。

師はあれども、われ参不得なるうらみあり、

参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。

かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

現在仏道修行を実践している師家の禅林を眺めると、学人が真に参学を請いもとめようとするとき、その機会を得ることは非常に難しい。学人はただの二十人三十人ではなく、百人千人もの一人一人であるからである。

(いま有道の宗匠の会をのぞむに、真実請参せんとするとき、そのたよりもとも難辨なり。ただ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。)


その一人一人が真実の帰着するところを求め、師が手を取るように学人を指導しようとすれば日が暮れてしまい、師と学人が切磋琢磨しようとすれば夜は明けてしまう。

或いは師が説法する時は、それを理解できる自分の耳目がなく、見聞を無駄にしてしまう。

耳目が具わって理解できる時は、師は既に説き終わってしまっている。

(おのおの実帰をもとむ、授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす、

あるいは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞をへだつ。

耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。)


先輩で力量のある老僧が、悟りを得て手を打って声を出して笑っているとき、仏弟子になったばかりの後輩の自分としては、その末席に連なる機会さえ稀であるというような具合である。

(耆宿尊年の老古錐、すでに拊掌笑呵呵のとき、

新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑと接するたより、なほまれなるがごとし。)


師の室中に入る者と入らない者と、師の法の決択ケッチャク(正しい法の選択)を聞く者と聞かない者とがある。

(堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。)

〔そのような機会に恵まれることは容易ではないのである。〕


月日は矢よりも早く過ぎ去り、身命は露よりもはかない。

師はいても、自分が学ぶことができないという恨みがある。

学ぼうとしても、師が得られない悲しみがある。

このような事は、目の当たりに見聞きしてきたことである。

(光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし、

師はあれども、われ参不得なるうらみあり。

参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。

かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。)


              合掌


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