〔『正法眼蔵』原文〕
いま有道ウドウの宗匠シュウショウの会エをのぞむに、
真実請参シンジツ シンサンせんとするとき、そのたよりもとも難辨ナンベンなり。
ただ二十三十箇の皮袋ヒタイにあらず、百千人の面々なり。
おのおの実帰ジッキをもとむ、授手の日くれなんとす、打舂ショウの夜あけなんとす。
あるひは師の普説するときは、わが耳目なくしていたづらに見聞をへだつ。
耳目そなはるときは、師また道取をはりぬ。
耆宿尊年ギシュクソンネンの老古錐ロウコスイ、すでに拊掌笑呵呵フショウショウカカのとき、
新戒晩進シンカイバンシンのおのれとしては、むしろのすゑを接するたより、
なほまれなるがごとし。
堂奥ドウオウにいるといらざると、師決シケツをきくときかざるとあり。
光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし。
師はあれども、われ参不得なるうらみあり、
参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。
現在仏道修行を実践している師家の禅林を眺めると、学人が真に参学を請いもとめようとするとき、その機会を得ることは非常に難しい。学人はただの二十人三十人ではなく、百人千人もの一人一人であるからである。
(いま有道の宗匠の会をのぞむに、真実請参せんとするとき、そのたよりもとも難辨なり。ただ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。)
その一人一人が真実の帰着するところを求め、師が手を取るように学人を指導しようとすれば日が暮れてしまい、師と学人が切磋琢磨しようとすれば夜は明けてしまう。
或いは師が説法する時は、それを理解できる自分の耳目がなく、見聞を無駄にしてしまう。
耳目が具わって理解できる時は、師は既に説き終わってしまっている。
(おのおの実帰をもとむ、授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす、
あるいは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞をへだつ。
耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。)
先輩で力量のある老僧が、悟りを得て手を打って声を出して笑っているとき、仏弟子になったばかりの後輩の自分としては、その末席に連なる機会さえ稀であるというような具合である。
(耆宿尊年の老古錐、すでに拊掌笑呵呵のとき、
新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑと接するたより、なほまれなるがごとし。)
師の室中に入る者と入らない者と、師の法の決択ケッチャク(正しい法の選択)を聞く者と聞かない者とがある。
(堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。)
〔そのような機会に恵まれることは容易ではないのである。〕
月日は矢よりも早く過ぎ去り、身命は露よりもはかない。
師はいても、自分が学ぶことができないという恨みがある。
学ぼうとしても、師が得られない悲しみがある。
このような事は、目の当たりに見聞きしてきたことである。
(光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし、
師はあれども、われ参不得なるうらみあり。
参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。)
合掌
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