〔『聞書』私訳〕
/「一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かずせんに如かず。
一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず」。
「これは、時人の行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈説よりも大功なるといふなり」というのは、「説」は「行」を離れず、「証」は「行」を離れないということである。
皮肉骨髄を四人の得道者にあてるとき、髄を得た者が特に勝っているというわけではない。ただ教行証が同じであるように、皮肉骨髄も同じなのである。
この「説」「行」はまったく同じと理解するところを、教家あるいは世間では、「説」を別のことと見て、行じないことは気を損ない益がないなどというが、そういうことではない。
また、理を説く者は多く、理を行ずる者は少ないなどとも言う。これらは「説」と「行」を各別のものとして立てるのである。そうであるから「証」も「行」も共に功徳があるのである。
/多聞をすすめ、多聞を斥けることがある。『華厳経』に言う、「譬えば、貧窮の人の日夜に他の宝を数え、自らは半銭の分も無きが如し、多聞も亦是の如し」と。これは多聞を斥ける意である。ただ聞くことだけを好んで、仏道のすべてを明らかにしない咎トガである。
「もし仏道を求めんと欲せば、常に多聞の人に随うべし、善知識は、これ大因縁、いわゆる化導して見仏をえせしむ」と。これは多聞をとる方である。
「一尺の行は一丈説よりも大功なり」というのは、これも「行」が勝っている意味合いであるが、仏法では仏は殊に勝れていると説くけれども、この仏は劣っていると説くことがないように、「大功なり」と言うのであり、「説」を小功とするのではない。また「丈」「尺」によらないところを、そのまま「大功」と使うわけがあるのである。
/三業は、身口意の三業である。ただし、身口意は各別ではないが、自我に対するときは身口意が各別に思われる。無我のときは、尽十方界の一隻眼とも、尽十方界の家常語とも言うときは、身の外に口を残し、口の外に意を置くことがないように、「説」と「行」も同じなのである。
/「いまの道得は、寰中の自為道にあらず、寰中の自為道なり」というのは、たとえば、『法華経』は三世の諸仏の「説」とは言うが、また、釈迦が世に出てこれを解き明かすのはこの意味である。また、三世の諸仏に釈迦が漏れるはずはないのである。
〔『抄』私訳〕
大慈寰中禅師の段、文の通りである。
一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如かず。
一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず」、云々。
この言葉を一般に理解するには、「一丈を説得」するよりも、「一尺を行取」する方が勝っているように思われるが、そうではない。その理由は、「一丈」の「説得」も、「一尺」の「行取」も、ともに「行持」の上に談ずる「尺寸」であるから、優劣高下を論ずることは許されない。
しかしこの巻で、「一尺の行は一丈説よりも大功なり」と言えば、なお勝劣があるようであり、前後矛盾しているように思われるが、これは『行持』の巻の上であるから、しばらく「一尺の行は一丈説よりも大功なり」と言うからといって常に勝劣浅深の義があるわけではない。従って、先に「一丈の説は不是とにはあらず」と釈されたのは明白なのである。
また、「行」の位は浅く、「証」の位は深いと思っているが、「行」と「証」はまったく同じ意味である。今の「一丈」「一尺」、「一尺」「一寸」の言葉にこの道理が符号するのである。また、「須弥」と「芥子」は仏法ではまったく一つであると学ぶのであるが、一般には、天地懸隔の相違の喩えとなっている。「須弥に全量あり、芥子に全量あり」というのは、この意味合いである。
この「道得は、寰中の自為道にあらず、寰中の自為道なり」と言う。
この「道得は、寰中の自為道」だけでなく、三世の諸仏祖などの「自為道なり」。この道理であるから、しばらく「寰中の自為道なり」とも言われるのである。
合掌
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