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大慈寰中禅師「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい」 『第十六行持』16-15a




 〔『正法眼蔵』原文〕                         

 大慈寰中禅師ダイジカンチュウ ゼンジいはく、

「説得セットク一丈、不如フニョ行取ギョウシュ一尺。説得一尺、不如行取一寸」。

《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如かず。

一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》


 これは、時人ジニンの行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是フゼとにはあらず、一尺の行ギョウは一丈説よりも大功ダイコウなるといふなり。


なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、

はるかに須弥シュミと芥子ケシとの論功もあるべきなり。


須弥に全量あり、芥子に全量あり。


行持の大節ダイセツ、これかくのごとし。


いまの道得は、寰中の自為道ジイドウにあらず、寰中の自為道なり。


 

〔『正法眼蔵』私訳〕                    

大慈寰中禅師は言う、「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい。

一尺を説くよりも、一寸を行ずる方がよい」。

(大慈寰中禅師、いわく、「説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如かず。一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》」。)


これは、当時の人の行持がおろそかであり仏道に通達することを忘れたかのようであるのを戒めているようであるが、一丈を説くことはいけないというのではない。一尺を行ずることは一丈を説くことよりも大きな功徳であると言うのである。

(これは、時人の行持、おろそかにして仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈の説よりも大功なり、というなり。)                 


どうしてただ丈尺の量の比較だけであろうか、

遙かに量が違う須弥山と芥子粒の功徳を論じることもあるべきである。

(なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥と芥子との論功もあるべきなり。)


須弥山には須弥山で全世界を尽くす功徳がある、

芥子粒には芥子粒で全世界を尽くす功徳がある。

(須弥に全量あり、芥子に全量あり。)


行持の大事なところとは、このようなことである。

(行持の大節、これかくのごとし。)

〔説得と行取と、大小優劣はなく一つである。〕


今の真実の言葉は、〔三世諸仏はみなこの通り説かれるのだから、〕

寰中禅師が自ら言われた言葉ではないが、

〔三世諸仏が説くこの言葉が寰中禅師の口から出たのであるから、〕

寰中禅師が自ら言われた言葉である。

(いまの道得は、寰中の自為道にあらず、寰中の自為道なり。)

〔三世諸仏を代表してこの言葉を説かれたのだから、

寰中禅師はえらい方だと言うのである。〕


大慈寰中禅師「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい」 『第十六行持』16-15b

         合掌


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