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百丈「一日なさざれば、一日食らわず」 『正法眼蔵第十六行持』16-9a 

〔『正法眼蔵』原文〕 

 百丈山ヒャクジョウザン大智禅師、

そのかみ馬祖バソの侍者とありしより、入寂ニュウジャクのゆふべにいたるまで、

一日も為衆為人イシュイニンの勤仕ゴンジなき日あらず。


かたじけなく、「一日不作イチニチ フサ一日不食 フジキ」のあとをのこすといふは、

百丈禅師すでに年老臘高ネンロウロウコウなり、なほ普請作務のところに、

壮齢ソウレイとおなじく励力レイリキす。


衆、これをいたむ、人、これをあはれむ、師、やまざるなり。


つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、

師、その日一日不食なり。


衆の作務にくはゝらざることをうらむる意旨なり。


これを百丈の「一日不作、一日不食」のあとといふ。


いま大宋国に流伝ルデンせる臨済の玄風ならびに諸方の叢林ソウリン

おほく百丈の玄風を行持するなり。   


                                                                               

〔『正法眼蔵』私訳〕                               百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師)は、その昔馬祖(馬祖道一禅師)の侍者であった時から、入滅の夕方に至るまで、一日たりとも大衆と人のために勤めない日はなかった。 

(百丈山大智禅師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、

一日も為衆為人の勤仕なき日あらず。)


恐れ多いことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という故実を残したのは、百丈禅師がすでに老齢となり出家後の年数も大分経ってからのことであり、依然として普請作務(大衆を普く請し勤労すること)のところで、若い僧たちと一緒に精を出した。

(かたじけなく、一日不作一日不食のあとをのこすといふは、

百丈禅師、すでに年老臘高なり、なほ普請作務のところに、壮齢とおなじく励力す。)    


僧たちはこれを嘆き、ほかの人もこれを気の毒に思ったが、師はやめなかった。

(衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。)                           


やむをえず作務のとき、作務の道具を隠して師に与えなかったところ、

師はその日一日食事をとらなかった。

(たった今つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、

師、その日一日不食なり。)                                      


大衆の作務に加わらなかったことを残念に思ったためである。

(衆の作務にくははらざることをうらむる意旨なり。)


これを百丈の「一日なさざれば、一日食らわず」の故実と言う。

(これを百丈の、一日不作一日不食のあとといふ。)                      


今大宋国に伝わり広まっている臨済の奥深い家風、並びに諸方の禅林は、

多く百丈の奥深い家風を行持しているのである。

(いま大宋国に流伝せる臨済の玄風、ならびに諸方の叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。)  




               合掌


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