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天人がまた食物を供養しようとたが、雲居大師を見ることが出来なかった『正法眼蔵第十六行持』16-8a 

 〔『正法眼蔵』原文〕                               

雲居山ウンゴサン弘覚大師グカクダイシ、そのかみ三峰庵サンポウアンに住せしとき、

天厨テンチュウ送食ソウジキす。


大師あるとき洞山に参じて、大道を決択ケッチャクしてさらに庵にかへる。


天使また食を再送して師を尋見ジンケンするに、三日を経て師をみることをえず。


天厨をまつことなし、大道を所宗とす。


辨肯ベンコウの志気、おもひやるべし。                     

                                 


〔『正法眼蔵』私訳〕                                

雲居山の弘覚大師(雲居道膺ドウヨウ禅師)は、その昔洞山の奥にある三峰山に庵を結んで住んでいたとき、天人が食物を送って供養した。

(雲居山弘覚大師、そのかみ三峰庵に住せしとき、天厨送食す。)


大師がある時、洞山良价禅師に参じて、仏祖の大道を自己のものとして、

再び庵に帰ってきた。

(大師あるとき洞山に参じて、大道を決択してさらに庵にかへる。)                  


天人がまた食物を供養しようとして大師を尋ねたが、

三日たっても大師を見ることが出来なかった。

(天使また食を再送して師を尋見するに、三日を経て師をみることをえず。)


もはや天人の供養を期待することなく、仏祖の大道を根本としたのである。

(天厨をまつことなし、大道を所宗とす。)


坐禅修行に精進した不退転の志を、思いやるべきである。

(辨肯の志気、おもひやるべし)。



               合掌


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