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馬祖道一禅師は坐禅をつとめること二十年であった『正法眼蔵第十六行持』16−6

〔『正法眼蔵』原文〕                    

 江西コウゼイ馬祖バソの坐禅することは二十年なり。


これ南嶽の密印を稟受ボンジュするなり。


伝法済人デンポウ サイニンのとき、坐禅をさしおくと道取せず。


参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。


普請作務フシン サムのところに、かならず先赴センプす。


老にいたりて懈惓ケゲンせず。いまの臨済リンザイは江西の流リュウなり。                                                                                         

〔『正法眼蔵』私訳〕                                               江西コウゼイ(揚子江中流の南岸の地)の馬祖道一禅師は、

坐禅をつとめること二十年であった。

(江西馬祖の坐禅することは二十年なり。)


その坐禅は南嶽懐譲禅師から親しく仏心印(仏の心そのもの)を受け取ったのである。

(これ南嶽の密印を稟受するなり。)                            


法を伝え人を救うとき、坐禅を差し置くと言わず坐禅のしづめであった。

(伝法済人のとき、坐禅をさしおくと道取せず。)


参禅学道の雲水がはじめて来たときには、

必ず坐禅をさせ仏心印を親しく受けさせた。

(参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。)                    


大衆ダイシュ全員を請ショウして行う作務のときには、必ず率先して赴いた。

(普請作務のところに、かならず先赴す。)


老年になっても怠ることはなかった。

(老にいたりて懈惓せず。)


今の臨済宗は、この江西の流れである。

(いまの臨済は江西の流なり。)



〔『抄』私訳〕 

「江西馬祖」の段、文の通りである。   


               合掌


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