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決して脇を寝床につけまい『正法眼蔵第十六行持』16-4-2

〔『正法眼蔵』原文〕 

時脇尊者、聞諸譏議、因謝時人、而自誓曰、

「我若不通三蔵理、不断三界欲、不得六神通、

不具八解脱、終不以脇而至於席」。  


《時に脇尊者、諸々の譏議を聞いて、

因みに時の人に謝して、而シカも自ら誓って曰く、


「我若モし、三蔵サンゾウの理を通ぜず、三界の欲を断ぜず、

六神通ロクジンツウを得ず、八解脱ハチゲダツを具せずば、終に脇を以て席に至ツけじ」。》  



自爾之後、唯日不足、経行宴坐、住立思惟。

昼則研習理教、夜乃静慮凝神。

綿歴三歳、学通三蔵、断三界欲、得三明智。

時人敬仰、因号脇尊者。


《爾ソレより後、唯コれ日も足らず、

経行キンヒン宴坐エンザし、住立ジュウリュウ思惟シユイす。


昼は則スナワち理教を研習し、

夜は乃スナワち静慮ジョウリョ凝神ギョウシンす。


三歳を綿歴メンレキするに、学は三蔵を通じ、

三界の欲を断じ、三明サンミョウの智を得る。


時の人敬仰キョウゴウして、因みに脇尊者と号す。》




〔『正法眼蔵』私訳〕 

その時、脇尊者は、多くの悪口を聞いて、

その連中にわびて、それでいて自らに誓って言った、

(時に脇尊者、諸の譏議を聞いて、因みに時の人に謝して、而も自ら誓って曰く、)           


「わたしがもし、三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)の道理に通じず、

欲・色・無色の三界の欲を断たず、神通力を得ず、

八解脱を具えなければ、決して脇を寝床につけまい」と。

(「我若し、三蔵の理を通ぜず、三界の欲を断ぜず、六神通を得ず、

 八解脱を具せずは、終に脇を以て席に至けじ。」)             


それから後は、ひたすら日を惜しんで、

坐禅し経行キンヒン(ゆっくり歩くこと)し、立って三蔵の道理を考えた。

(爾より後、唯日も足らず、経行宴坐し、住立思惟す。)

昼は三蔵の道理を学習し、夜は坐禅に精進したのである。

(昼は則理教を研習し、夜は乃ち静慮を凝神す。)                         


これを三年間絶え間なく続けたので、学は三蔵に通じ、

三界の欲を断ち、仏の智慧(宿命・天限・漏尽の智)を得た。

(三歳を綿歴するに、学は三蔵を通じ、三界の欲を断じ、三明の智を得る。)


当時の人たちは、尊者を敬い仰いで、

脇尊者(脇を寝床につけない尊い者)と名付けた。

(時の人敬仰して、因みに脇尊者と号す。)  



                       合掌


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