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この滅の上で無量の功徳を荘厳しているのである『第十三海印三昧』13-8-2b

 〔『聞書』私訳〕

/「滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、

不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし」と言う、


「起」「滅」の二つの上に「不言」の言葉を用いるのは、「是れ誰が起滅ぞ」と言えば「起」「滅」の二との法があるように思われるが、〔ニつの法を超えた絶対の立場から、〕「不言」の方を取って、「同生」と言うのである。「不言」の言葉は同じだと言っても「起」「滅」の法は同じではないから、しばらく「同死の不言にはあらざるべし」と言うのである。宗意からは、このような相待・相対の言葉があろうはずはないが、説明上、このように言うのである。


/「不言は不道にはあらず、道得は言得にあらず」と言う、

仏法(宗意)の上の言葉では、「起」「滅」を生死とも取らず、同じとも取らない。同じと言っても、物を二つ並べて同じと言うのでないから、不同という言葉もまた、世間で物を二つ並べて不同と言うのではないから、同・不同、会・不会、どちらも自由自在に使えるのである。


つまるところ、生も死も、同も不同もどのようにも応用して使えるのである。これが言語に関わらない本意である。〔すなわち「不言は不道にはあらず、道得は言得にあらず」とは、このことを言うのである。〕



〔『抄』私訳〕

「この滅に多般の手眼を荘厳せり。いはゆる無上大涅槃なり、いはゆる之を死と謂ふなり、いはゆる執して断と為すなり、いはゆる所住と為すなり。いはゆるかくのごとくの許多手眼、しかしながら滅の功徳なり」とある。


この「滅」の上に「多般の手眼を荘厳せり」とは、上に言う「無上大涅槃」並びに「之を死と謂ふ」「執して断と為す」「所住と為す」などの言葉である。この外に千万の言葉がある。


これは六祖の「無上大涅槃、円明常寂照」、凡夫は「之を死と謂ふ」、外道は「執して断と為す」と言われるお言葉を引かれたのである。これはあんなにも勝れている「無上大涅槃」を、凡夫はこれを死と見、外道は断じようとするから、嫌った言葉のように思われる。


但し、これらのお言葉を今は「滅」の「荘厳」とするのであって、そうであるが、まったく嫌う言葉と思ってはならず、これを「滅の功徳」と言うのである。


「滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、

不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし」とある。


これは「滅」の時の「不言」と「起」の時の「不言」と、一般には「起」「滅」は変化するが、「不言」という言葉は「起」「滅」ともに同じと理解されるべきである。


それを「起」の時の「不言」は「起」に付け、「滅」の時の「不言」は「滅」に付けて、各々別なものと思うことがないようにという意である。


従って、「不言の同生」とは、「起」「滅」の「不言」が同じあるということであり、「同死の不言にはあらず」とは、「滅」の「不言」は「滅」に付け、「起」の「不言」は「起」に付けよという意味である。


                   合掌


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