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道元禅師の坐禅箴 『第十二坐禅箴』12-11b私訳

 〔『正法眼蔵』私訳〕

今、宏智禅師を去ること八十余年である、

その坐禅箴を見て、この坐禅箴を撰述する。

(いま宏智禅師より後八十余年なり、かの坐禅箴をみて、この坐禅箴を撰す。)


今、仁治三年(西暦1242年)壬寅三月十八日である。

今年から紹興二十七年(西暦1157年)十月八日(宏智禅師入滅の日)に至るまで、遡って数えると、僅かに八十五年である。

(いま仁治三年壬寅三月十八日なり。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、

 前後を算数するに、わづかに八十五年なり。)


今撰述する坐禅箴はこれである。

(いま撰する坐禅箴、これなり。)




坐禅の急所(坐禅箴 )


坐禅は、あらゆる仏の要カナメのはたらきであり、

あらゆる祖師のはたらきの要である。

(仏仏要機、祖祖機要。《仏仏の要機、祖祖の機要》)


その様子は、思量なしにすることなく現成し、

違いのあるがままに成就するのである。

(不思量而現、不囘互而成。《不思量にして現じ、不囘互にて成ず》)


思量なしすることなく現成する、

その現成はおのずから自分の今の様子そのものである。

(不思量而現、其現自親。《不思量にして現ず、其の現自ら親なり》)


違いのあるがままに成就する、その成就はおのずから明らかである。

(不囘互而成、其成自証。《不囘互にして成ず、其の成自ら証なり》)


その現成はおのずから自分の今の様子そのものであり、

これまで別の様子に汚されたことはない。

(其現自親、曾無染汚。《其の現自ら親なり、曾て染汚無し》)


その成就はおのずから明らかであり、

これまで正しいとか偏っているといったことはない。

(其成自証、曾無正偏。《其の成自ら証なり、曾て正偏無し》)


これまで別の様子に汚されたことがない自分の今の様子、

その自分の今の様子は何もしないまま先程の様子はどこにもない。

(曾無染汚之親、其親無委而脱落。《曾て染汚無きの親、其の親無委にして脱落なり》)


これまで正しいとか偏っているといったことのない確かさ、

その確かさはどうしようと図ることなく坐禅に精進することである。

(曽無正偏之証、其証無図而功夫。《曽て正偏無きの証、其の証無図にして功夫なり》)


その確かさの様子は、水(全世界)が澄んで底の様子が見える、

あたかも魚(自分)が泳いでいる時に魚自身のことを忘れ

魚がそこに泳いでいる様子だけが現れるようなものである。

(水清徹地兮、魚行似魚。《水清んで徹地なり、魚行いて魚に似たり》)


(全世界)が広々として一点の雲もなく晴れ渡っている、

あたかも鳥(自分)が飛んでいる時に鳥自身のことを忘れ

鳥がそこに飛んでいる様子だけが現れるようなものである。

(空闊透天兮、鳥飛如鳥。《空闊透天なり、鳥飛んで鳥の如し》)


宏智禅師の坐禅箴の言い尽くしていないところがあるのではないが、

改めてこのように言うのである。

(宏智禅師の坐禅箴、それ道未是にあらざれども、さらにかくのごとく道取すべきなり。)


およそ仏祖の法を継ぐ子孫は、必ず坐禅を一大事であると学ぶべきである。

(おほよそ仏祖の兒孫、かならず坐禅を一大事なりと参学すべし。)


これが仏から仏に伝わる正しいありようなのである。

(これ単伝の正印なり。)




正法眼蔵坐禅箴(坐禅の急所) 第十二巻 


仁治三年(西暦1242年)壬寅三月十八日、観音導利興聖宝林寺で書いた。


同四年(西暦1243年)癸卯、冬十一月、越州吉田県、吉峰精舎で修行僧に説いた。



                           合掌

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