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坐相に執すれば、その理に達することはない  『第十二坐禅箴』12-9-1b

 〔『聞書』私訳〕

/「「若執坐相、非達其理」《若し坐相を執せば、その理に達するに非ず》《割註:この「執」の言葉は嫌ってはならず、「不悟至道」の悟であり、「非達」の非である。》」とある。


つまるところ、「執坐相」を坐仏と説く。「非達其理」を坐仏の荘厳とするから、今の「執」は執心・執着などというのと同じ文 字である。但し、「殺」は「執」に当たり「非 達」は今の「未 殺人」に当たる。つまるところ、一方に当てるならば「殺人」は ただそのまま「未殺人」である。「非達」はまた「達」と当体を 究め尽くすべきである。この「執」を捨てる意味にも使い、触する意味にも使うのである。


/「不執坐相」というのは「執坐相」を嫌うようであるが、「不執坐相なることえざるがゆゑに」と説くから、「執坐相はたとひ玲瓏なりとも」と言われるのである。


「非達其理」の言葉は、「其理に達せず」と理解されるので、「達其理」は採用すべきであるようだが、これもそういうことではない。「非達其理」とは、「執坐相」が「玲瓏」であるときに、達すべきをまだ達しないから「非達其理」と言うのではない。


「たとひ玲瓏」である「執坐相」であっても、「執坐相」を嫌って「非達其理」と言うのではない。例えば、坐仏一つの上で「非達其理」とも言うようなことであり、「達其理」とも言うようなことである。


「非達其理」と言うのは、例えば、「大悟底人」「不悟底人」などと言うようなことである。まったく嫌うべきことではない。「非達其理」といって劣っているものとするのは「執坐相」である。



〔『抄』私訳〕

「『若執坐相ニャクシュウザソウ、非達其理ヒタツゴリ』。いはゆる『執坐相』とは、坐相を捨シャし、坐相を触ソクするなり」とある。


この「若執坐相、非達其理」の言葉は、嫌われている言葉かと思われるが、決してそうではないことが、次の文で理解できる。


「この道理は、すでに坐仏するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏レイロウなりとも、「非達其理」なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ」とある。


そもそも、「坐相を執す」とは、何物かがあって「執」と成すのか。「非定相仏」の非を、是非の非ではないと言うようなものである。今は、「不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし」とは、「執坐相」が透き通って隠れるところがなくても「非達其理なるべし」というのである。「執坐相」の姿が「非達其理なるべし」なのである。 人を置いて、其の理に達する達しないというのではない。


「いまだかつて坐せざるものにこの道ドウのあるにあらず。打坐時にあり、打坐人にあり、打坐仏にあり、学坐仏にあり」とある。


これは文の通り。実に、今の坐禅の理に漏れるものはあるはずがないのであるが、「坐せざるものに」は実に「この道」はあるはずがないのである。「打坐時」「打坐人」「打坐仏」「学坐仏」などに、上の道理があるというのである。



                     合掌


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