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殺人か未殺人か 『第十二坐禅箴』12-8-2b

 〔『聞書』私訳〕

/「有什麼形段」(什麼なる形段か有る)というのは、この「形段(かたち)」が「三界唯一心」であり、「唯有一乗法」である。


/「殺人・未殺人」とは、今「人を殺す」という「人」は坐禅人である。坐禅すれば坐仏であるから、人を重ねることはできない。この時、人を殺すと言うのである。


「未殺人」というのは、坐禅人と言う時、人が現前するから「未殺」と言うのである。坐人の時は「殺仏」であり、坐仏の時は「殺人」である。「未殺人」とは、一心即三界(心は三界である)であると言う「未殺人」である。例えば、「殺」「未殺」の違いは、三界唯一心(三界は心である)と一心即三界というほどの違いである。



〔『抄』私訳〕

「殺セツの言ゴン、たとひ凡夫のごとくにひとしくとも、ひとへに凡夫と同ずべからず。又坐仏の殺仏なるは、有什麼形段ウシモギョウダン《什麼なる形段か有る》と参究すべし」とある。


本当に、「殺」の言葉は、凡夫が使う「殺(ころす)」とどうして同じであろうか、言うまでもないことである。


「又坐仏の殺仏なるは、有什麼形段と参究すべし」とある。この「有什麼形段(什麼なる形段か有る)」の言葉がそのまま「坐仏」であり、「殺仏」である。思量であるか、不思量であるか、非思量であるか、「坐仏」であるか、「殺仏」であるか、この道理が「有什麼形段」と言われるのである。いずれの意味にも当たる「形段(かたち)」である。


「仏功徳すでに殺仏なるを拈挙ネンコして、われらが殺人・未殺人ミセツジンをも参学すべし。」とある。


これは、この「殺仏」の道理を「拈挙して、われらが殺人・未殺人をも参学すべし」と言っている。文の通り理解すべきである。


今の我々の坐禅の姿が「殺人」の究極である。坐禅の外に他の人がいないからである。


 

                     合掌


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