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瓦を磨くとその通りにしか見えないはたらきが止むことなくある『第十二坐禅箴』12-3-2b

〔抄私訳〕

「此土他界シドタカイことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし」とある。


これは「此土他界」・尽十方界が、みな「磨塼」の道理であるから、「磨塼いまだやまざる宗旨あり」と言うのである。


「自己の所見を自己の所見と決定ケツジョウせざるのみにあらず、万般の作業サゴウに参学すべき宗旨あることを一定イチヂョウするなり」とある。


これは、「自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず」とは、しばらくこれは我に名づけた自己のことである。自分の心に、山とも河とも火とも水とも思う「所見」を「決定せざるのみにあらず」、森羅万象の「作業に参学すべき宗旨あることを一定す」べきであるというのである。


「しるべし、仏をみるに仏をしらず、会せざるがごとく、水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。眼前の法、さらに通路あるべからずと倉卒ソウソツなるは、仏学にあらざるなり」とある


確かに、「仏をみるに仏をしらず」、「水」を見ても少しも本当には「水」の理も「しらず」、「山」を見てもその理を知らない。これが凡夫の見方であることは明らかである。


ただ、自分が山を見、水を見て、山は山、水は水と理解しているだけではなく、この外に「通路」があるのである。自分の見方の外はありえないと「倉卒」(軽率)に思ってはならない。これは、「仏学にあらざるなり」と嫌われるのである。


このように、磚を磨くことをただ普通に磚を磨くだけと思ってはならない。磚を磨く道理は、凡夫の見方と同じではない道理を示すためのお言葉である。


〔聞書私訳〕

/「万般の作業に参学すべき」とは、「作業」は「作什麼ソモサン(いかに)」の法を指すのである。取るに足らない凡夫の「作業」ではない。「万般」についている「作業」である。「自己の所見」が取るに足らないことを表すために、「仏をみるに仏をしらず」、「水をみるをもしらず、山をみるをもしらず」と言うのである。



                  合掌


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正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

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