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坐っているこの通りの様子(図作仏)『第十二坐禅箴』12-2-3b

 〔抄私訳〕

「江西いはく、『図作仏ズサブツ』。この道、あきらめ達すべし。作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。ほとけに作仏せらるるを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、ほとけの一面出、両面出するを作仏と道取するか」とある。


江西は、南嶽に「大徳、坐禅図箇什麼」《坐禅して箇の何をか図る》と問われ、「図作仏」と答えられた。これは風情なく、「仏に作ることを図る」と答えたように思われるが、そうではない。この「図」がそのまま「作仏」なのである。


この「図作仏」の道理が「ほとけに作仏せらるるを作仏と道取」し、「ほとけを作仏するを作仏と道取するか」という道理であるのである。


また、「ほとけの一面出、両面出」とは、一仏二仏という言葉であり、一仏二仏を「道取するか」と言うのである。この「図作仏」の道理がこれらのことに当たるのである。「坐禅」と「作仏」の間柄は、このように親切である道理である。


「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。作仏たとひ万般バンパンなりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし」とある。


「図作仏は脱落」、「脱落は図作仏」は、ただ同じ言葉を打ち返して言うのである。これは、「坐禅」と「作仏」の間柄をこのように言われるのである。


「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆく」とは、「作仏」の道理が多くあってもただこの「図」の道理である。この道理は「葛藤」が「葛藤」を纏マトい、「坐禅」が「坐禅」を纏い、「作仏」が「作仏」を纏うという道理である。


「図は作仏より前」、「作仏より後」であるというのも、ただ「図作仏」の上の前後なのである。


〔聞書私訳〕

/「図」は「作仏」であり、「大徳」の「坐禅」の「図」である、

「図坐禅」という言葉がもれるているように思われるが、はっきりと現れている。


その訳は、「図は作仏より前なるべし」、「後なるべし」、「正当恁麼時なるべし」という、この前後並びに「正当恁麼時」は、みな坐禅であると理解するからである。


以前の言葉もこのように説かれるのを、参学眼が未熟な時は、坐禅の字がない感じがするのである。


/打破という時は未打破があると思われ、脱落という時は未脱落があると思われる。しかし、未打破・未脱落の時はないのである。もし未打破・未脱落を用いるときは、打破・脱落に乗ずる言葉として用いるのである。


未打破・未脱落は、前・後・正当恁麼時に関わらない未打破・未脱落であるから、凡夫の考えで、未の字を置けば未解脱の時と思うのは迷いである。


/「葛藤」という言葉が出てくれば、依倚エイの意味合いになるが、そうではない。ただ「葛藤しもてゆく」とあるだけで、樹に倚るとも言わない。たとえ依倚と理解することがあっても、「葛藤」が「葛藤」によると理解すべきである。


/「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か」とは、何事がどのようにしてということがないから、「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏」とも言うのである。世間では、多く小乗の考え方を用いて、長時間の修行によって「作仏」すると信じている。例えば、一声一念の名号によって成仏すると理解するのも「作仏」の意である。


また、「三界唯心」は心を「作仏」するか、心に「作仏」されるか。但し、「心外無別法」と言うから、仏の外に別の仏がないのでこのように理解すべきである。


悟に悟られるのが「作仏」である。そうかといって「作仏」されない前は何であったのかと思われる所を、「ほとけを作仏する」かとも言うのである。


「一面出、両面出」というのを聞いて、「作仏されるぞ」「作仏するぞ」などというのを「両面」と言うのだろうと理解するのもやはり離れた考え方である。「両面」の両の字は用いるまでもなく、ただ「一仏出」なのである。



                     合掌



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