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坐禅の肝心要の所『第十二坐禅箴』12-2-3〔評釈〕

 ここに出てきた「脱落」「葛藤」「坐禅かならず図作仏」「前・後・正当恁麼時」について、坐禅の実物の様子に引き付けて理解すべく、弊見を述べてみたいと思います。


まず、「脱落」です。「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か」という原文を「坐禅している一瞬一瞬の様子を作仏の様子(図作仏)と言っても、一瞬前の様子は抜け落ち跡形も残らず、今の様子だけがこうやってあるのだ」と解釈します。


次に、「葛藤」です。「この図に葛藤しもてゆく」を「この坐禅の様子の中で見たり聞いたり感じたり思ったりすることによって、様々なものが蔓草のように絡み合っていく」と解釈します。私たちは、思考や感情が湧き上がってくると、それを邪魔に感じたり問題視したりすることがあります。そのような「葛藤」が出てきても、私たちはどうすることもできず、手の施しようもありません。しかし一方では、現れたものは、何もしなくても自然に跡形もなく消え去ってしまいます。これはまさに、仏祖方が自覚された私たち自身の真相でしょう。


本当はこんな風に各自が生活しているということでしょう。しかし、この真実を自覚できないものだから、私たちは現れては消える様々な現象に惑わされ、それを問題視して右往左往するのが、一般的な生き方と言えるでしょう。だが、坐禅という実物そのものから学んでみると、物事がどのように展開しているのかが、明確に理解できるようになっています。それが今説かれている「坐禅箴」、つまり坐禅する上で最も重要な肝心要の所なのです。


次に、「坐禅かならず図作仏」です。これは坐禅以外の事柄にも当てはまります。例えば、ある動作をする時、その動作以外の様子になるということは決してありません。〔別の動作をする、〕このように動作すると、必ずこのような様子になるのですね。それと同じように、今の「坐禅の様子」が、まさに今の様子が今ここに在るということです。それがここで言う「坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり」、つまり「坐禅とは、そこに坐っているその通りの様子が必ず在り、坐禅とはこうやったら必ずこうなっている様子が在る」ということでしょう。


最後に、「前・後・正当恁麼時」です。「坐禅の図は作仏より前であり、作仏より後であり、作仏の正にその時なのである」という原文を、「坐禅している時、一瞬前には一瞬前の様子があり、次の瞬間には次の様子があり、今この瞬間には今の様子があるだけだ」と解釈します。過去・現在・未来という人間が仮構した概念に実体はありませんが、人間はそれらを実体視してあれこれ比較する傾向があります。例えば、さっき坐っていた様子が今の様子より良かったと思い、次はさっきのような様子になるように坐ろうと考えて、修行の上で大変厄介な思考の絡まりを繰り広げることがあります。


坐禅においては、そういうことはしません。そもそも、私たち各人の身体は一つしかないので、何時何処にいても、私たちにはその瞬間の様子が一つあるだけです。従って、存在しない別の様子と比較する必要はまったくありません。


どんな時でも、どこへ行こうとも、私たちは常に今の様子から離れることはなく、今の様子しかありません。このようにして、私たちは自分の身体のありようから自己の本当のありようを学んでいくのです。これが坐禅の肝心要の所です。


                    合掌



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