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「箇の不思量底を思量す」とは?『第十二坐禅箴』12-1〔『正法眼蔵』評釈〕

 キーワード「箇の不思量底を思量す」「非思量」を分かりやすく解説してほしい、と読者の方からご要望がありました。トライしてみたいと思います。


 坐っている時、「カアカア!」と聞こえることがあります。その時、「カアカア!」が響いている今の様子だけに居るか、「カアカアと音がしたな」と思うか、そこに「箇の不思量底を思量す」るか、それとも今の様子を「思量」(思慮分別、思い、考え)で取り扱うか、という明確な違いがあります。今「カアカア!」と聞こえれば、聞こえる今の様子のままに居るのが「箇の不思量底を思量す」(今このようにある、思量を離れている今の様子のままに居る)ということです。


見える今の様子のままに居る、香る今の様子のままに居る、味がする今の様子のままに居る、思いが浮かぶ今の様子のままに居る。何が起ころうが何が現れようが良かろうが悪かろうが思量せず今の様子のままにただ居る。今このようにある自分のこの身心の生命活動の今の様子のままにただ居る(参ずる)。これが只管打坐の肝心要のところです。


 次に、その僧が「不思量底はどうやって思量するのですか」と尋ねたのは、やはり「思量」に渡るところがあります。教えられるとそういうことだと理解し、人から教えられたことを基準に生活するようになりますが、そうではないでしょう。


手を打つと「パン!」と聞こえます。人に教えられたからそのように聞こえる訳ではありません。


けれども、手を打って「パン!」とやったらこのようになりますよと教えられると、その理解を元にして生活していこうとします。そうすると、今の様子=「パン!」=思量から離れている生命活動の今の様子(「パン!」)に居るということがなくなってしまいます。


だからそこを外さないよう、薬山大師がその僧に「非思量(思量でない実物のありよう)と言われたのです。



                      合掌

医学の知見も借りて「箇の不思量底を思量す」を考察『第十二坐禅箴』12-1〔『正法眼蔵』評釈〕


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