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仏になることを求めない行仏がある『第十二坐禅箴』12-1-7b

 〔抄私訳〕

「その榜様ボウヨウの宗旨シュウシは、作仏をもとめざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案現成コウアンゲンジョウなり」とある。


今の「坐禅」は、「作仏をもとめざる行仏あり、行仏さらに作仏にあらざる」道理である。「作仏」の「公案現成」であり、「行仏」の「公案現成」である。


「身仏さらに作仏にあらず、籮籠打破ラロウタハすれば坐仏さらに作仏をさゑず。」とある。


仏に成ると言えば、必ずまず身を差し出すのである。「身仏」(自分の身心の仏行がそのまま仏の身心である)と言う時はすっかり「身仏」であり、「身仏」の外に他の「仏」はなく、「身仏」を「作仏」する(仏に作る)と思ってはいけない。


「籮籠打破」とは、今前に言った「行仏」「作仏」「身仏」等のいろいろとある言葉を「打破」してしまえば、「坐仏さらに作仏」すると言っても、決して差し支えない(さゑず)と言うのである。つまるところ、この意味合いは究極の解脱の理に至ったなら、身が「作仏」すると言っても、何と言っても差し支えないと言うのである。


「正当恁麼のとき、千古万古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝ミゾにみち壑タニにみつ量あるなり。」とある。


この「籮籠打破」の「正当恁麼のとき」は「ほとけにいり魔にいる」と言う。「魔」も「進」も「退」も、みな円満・満足の意味であるから、「溝にみち壑にみつ量あるなり」と言うのである。


〔聞書私訳〕

/「ほとけにいり魔にいるちからあり」というのも坐禅である。仏祖を超越しているのを「ほとけにいり魔にいる」と使う。入の一字は用いるまでもないのである。


/「進歩退歩」とは、進み退く歩みである。百尺の竿頭を「進歩退歩」する「進」と「退」は異なるけれども百尺の竿頭の上のことである。


「坐仏」「作仏」というのも「坐禅」の一面の上で説く理であり、例えばこのように竿頭の上を歩むのではなく、取りも直さず竿頭そのものを「歩む」とするので、この道理に落ち着くべきである。


/「溝にみち壑にみつ量」とは、「ほとけにいり魔にいる」と言うほどの言葉であり、つまるところ、満ちている意である。



                      合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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