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大悟に徹底した人がかえって迷うことがあるとは? 『第十大悟』10-3-1b

 〔抄私訳〕

「京兆キョウチョウ華厳寺ケゴンジ宝智大師、〈嗣洞山諱休静〉、因僧問、「大悟底人却迷時如何ダイゴテイジンキャクメイジニョガ」。《〈洞山に嗣す、諱イミナは休静キュウジョウ因みに僧問ふ、「大悟底人却って迷ふ時如何イカン

師云イハク、「破鏡不重照フチョウショウ、落花難上樹ナンジョウジュ《破鏡重ねて照らさず、落花樹に上り難し》」。

 いまの問処は、問処なりといへども示衆ジシュのごとし。華厳の会にあらざれば開演せず。洞山トウザンの嫡子チャクシにあらざれば、加被カビすべからず。まことにこれ参飽仏祖の方席ホウセキなるべし」とある。


まず、今の「大悟底人却迷時如何」の言葉がよく分からない。「大悟の人」が、また「迷う」ことがあるのだろうか、大悟は尽きることがないはずだからである。


「還作衆生」(還って衆生と作る)ということが、主観と客観の対立を超えた悟りを得た後に、再び現実の世界に立ち還って、この現実の世界こそ真実の現れであるとする見解として教(天台教学)で説かれることがあるが、これはその意味ではない。


ただ、今の「大悟」と「却迷」という言葉は、遠くは『現成公案』の巻で「諸法の仏法である時、迷いがあり悟りがある」と言い、近くは今の巻の初めで、「大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟ショウゴロウゴし、失悟放行ホウアンす」(大悟が現れ、〔衆生済度のために、〕大悟にもとらわれず仏道に極まり、大悟を省み大悟を自在に用い、大悟を忘れ大道にかなって自由自在に活動する)と言うのと同じである。


この道理を忘れる時、この「迷」や「悟」という言葉に迷うのである。初めて聞いたからといって驚くにはあたらない。


だから、「いまの問処は、問処なりといへども示衆のごとし」(今の問いは、問いの形をとってはいるが、修行僧に対して師が教えを説くようなことである)と言うのである。その意味合いで「大悟」と「迷」の道理を「示衆」したと理解すべきである。


「まことにこれ参飽仏祖の方席なるべし」とあるのは、宝智大師を褒められる道元禅師のお言葉である。



〔聞書私訳〕

/宝智大師の段。

「大悟底人却迷時如何」(大悟に徹底した人がかえって迷うとは、どういうことでしょうか)、「破鏡不重照、落花難上樹」(割れた鏡は二度と元のようには映らず、落ちた花は再び木に戻ることはない)と言う。

「三界に住する人、一心を悟る時如何に」(三界に住む人が、一心に悟る時はどうか)というのも、これと同じようなことである。


/「大悟底人却迷時如何」(大悟に徹底した人がかえって迷うとは、どういうことでしょうか)という言葉に当てはめればば、「破鏡」は「大悟底人」、「却迷時如何」は「不重照」、「落花」は「大悟底人」、「難上樹」は「却迷時如何」と考えられるかもしれないが、そうではない。


「破鏡」というのは「未だ破れざる」状態を指すのではなく、「縁に対することなく照らす」というようなものであり、ただ「重ねて照らさない」ということである。「鏡」を像に鑄るということがあるが、何も映し出すことはないであろう。


「落花難上樹」も、ただ「樹」がないとしても、ただ「上り難し」と説かれるようなものである。「不重照」の「不」の字も、「難上樹」の「難」の字も、ただ「難得」の「難」と同じように理解すべきである。


今、「落花」と言うのも、「百尺の竿頭」の上に置いて、咲くとも散るとも、共に言うようなものである。「進歩退歩する、百尺の竿頭」と同じ意味である。


/つまるところ、「大悟」と「却迷」には、善悪・勝劣の区別はない。肩を並べる上では、「却迷」があってもなくても、みな道理に合わないと理解すべきである。この分別を誤ってはならないのである。


                          合掌


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