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たった今が大悟だ 『第十大悟』10-1-5b

 〔抄私訳〕

「これらの数般シュハン、ひとつを利と認じ、ふたつを鈍と認ぜざるなり。多般ともに多般の功業を現成するなり」。


「利」「鈍」の二つを立てて、「学而知」は「鈍」、後の「生知」「仏知者」「仏智者」「無師知」などは「利」に当てるが、この「大悟」の道理の上では、「利」「鈍」の取捨をしてはならないと言うのである。


「数般」とは、上の「生知」「学知」「無師知」などを指すのである。


「多般ともに多般の功業を現成す」とは、この「数般」の一つ一つに「多般の功業」(多種多様な功徳あるはたらき)があるという意味合いである。


「しかあれば、いずれの情無情か生知にあらざらんと参学すべし。生知あれば生悟あり、生証明あり、生修行あり」。


「生知」と言うと、生まれつきからものを知ると理解されるが、今の「生知」は、その義ではない。全機(全分の働き)の生であるから、「生知」の上に「生悟」も「生証明」も「生修行」もそのほか尽きることなく言葉があるのである。


同じように、「学而知」の上には、学悟・学証明・学修行があり、或いは「仏智者」の上には、仏悟・仏証明・仏修行など、それぞれこの道理があるのである。


「しかあれば、仏祖すでに調御丈夫チョウゴジョウブなる、これを生悟と称しきたれり。悟を拈来せる生なるがゆゑにかくのごとし。参飽大悟する生悟なるべし。拈悟の学なるゆゑにかくのごとし」。


仏祖の功徳を取り集めたのを「生悟」と言う。世間の人が思っている「生知」(生まれながらの知)の道理ではない。この「生」は、本当に「悟を拈来せる生」、すなわち全機の「生」に外ならないのである。


「参飽大悟」(大悟を参究しぬいて大悟でお腹が一杯になり身残らず大悟になってしまう)とあり、生まれつきの知とは言えない。だから「生悟」とは、参学の姿を「参飽大悟する生悟なるべし」というのである。


「しかあればすなはち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟、四大を拈じて大悟す、仏祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。みなともに大悟を拈来して、さらに大悟するなり」。


「三界を拈じて大悟す」、或いは、「百草」「四大」「仏祖」などを主アルジとし、これらより「大悟」が伝わって我々が発明ホツミョウ(真理を明らかに徹見すること)するように理解するだろうが、そのことではない。


「三界」(あらゆる世界)が即ち「大悟」であり、「百草」(森羅万象)が即ち「大悟」であり、或いは「四大」(身体)「仏祖」などがみな「大悟」であるからこのように言うのである。


また、「公案を拈じて大悟す。みなともに大悟を拈来して、さらに大悟するなり」とある。


ところが、近頃の禅僧と称する族ヤカラは、ただ「公案」を額に懸けて疑っていれば悟りが来ると多分言うが、このこととは違う。用いてはならないことである。


「公案を拈」ずることは、「大悟を拈来して、さらに大悟する」道理である。


「その正当恁麼時は、而今ニコンなり」。

これは「大悟」を「而今」と指すのである。


〔聞書私訳〕

/「正当恁麼時は、而今なり」と言う、

「正当」とは古い言葉である。十五日以前・十五日以後・「正当」十五日と言う。これは前後を立てているようであるが、ただ十五日の上に前後を置いているので、「正当恁麼時」(正にこのような時)は「而今」(今)である。



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