スキップしてメイン コンテンツに移動

大悟を忘れ大道にかない自由自在に生活する 『第十大悟』 10-1-2b

 〔抄私訳〕

「このゆゑに、大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟ショウゴロウゴし、

失悟放行ホウアンす。これ、仏祖家常カジョウなり。」とある。


これは、「大悟」(無上正等正覚)の上の「不悟」(悟にとらわれないこと)が「至道」(仏道に到る)し、「省悟」(悟を省みること)が「弄悟」(悟を使いぬく)し、「失悟」(悟を忘れること)が「放行」(大道にかなって自由自在に生活する)のである。


「大悟」「不悟」は会不会エフエ(会の上の不会である。一般には、「失悟」は悪い言葉と思われるが、「大悟」の上の「失悟」であるので、善悪には関わらないのである。


「挙拈コネンする使得シトク十二時あり。抛却ホウキャクする被使十二時あり」とある。


「挙拈」は「大悟」に当たり、「大悟現成」の時は、「不悟」「省悟」などはみな隠れるのである。この隠れる所をしばらく「抛却」と使うのである。


「十二時」とは解脱の言葉である。

「十二時を使い得る」と、「十二時に使われる」とは、ただ同じことである。


「さらに、この関棙子カンレイスを跳出する弄泥団ロウデイダンもあり、

弄精魂ロウゼイコンもあり」とある。

これはこの「関棙子を跳出する」時は、「大悟」「不悟」「省悟」などに限らず、どのような言葉も出てくる道理である。


〔聞書私訳〕

/「挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり」と言う。

これは、「省悟弄悟」(悟を省み悟を使いぬく)などという意を「挙拈」とも使い、「失悟放行」(悟を忘れ道にかなって自由自在に生活する)という意を「抛却」とも使うのである。


「使い得る」(使得)と「使われる」(被使)というのは、みな「十二時」の上で説くのである。この「大道」が伝わるのを「大悟現成」と言うのである。「弄悟」「失悟」とも「放行」とも言われるように、「使得」し「被使」するのである。「大悟」の上と、「十二時」の上と、変わらないのである。


この「使われる」ということは、誰かが何かを使うと言うのではなく、「平展」(平生底)の「至道」(仏道の究極)であると使うのである。


また、今の「十二時」は、午ウマヒツジウシなどと一般的時刻を数えよというわけではない。つまるところ、諸法(すべてのもの〉が実相(真実のすがた)を「使得」し、実相が諸法に「使得」されるほどのことである。


また、諸法は諸法であり、実相は実相であるとも言い、或いは、「弄泥団」(身学道)とも「弄精魂」(心学道)とも言うのが、このことである。一心は一心であり、三界をかりる必要はなく、また、一心は一心でなく、三界は三界ではないとも言うことができるであろう。


/「弄泥団」「弄精魂」と言う。泥を丸めたり、我々の魂を弄ぶと思われるが、「仏々の大道」や「祖々の功業」では、これを下げ、あれを上げることはなく、「諸法の仏法なる時節、諸仏あり、衆生あり」という意味合いで、今は「弄泥団・弄精魂」と言うのである。


例えば、大地を弄モテアソび、虚空を弄び、山河を弄ぶと言うのと、同じ意味である。「弄精魂」と言えば、我々の肉体のことと思われるが、今は仏道の上で理解すべきである。



                           合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村