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正9-3-1a『第九古仏心』第三段その1a〔古仏心とは、垣・壁・瓦・小石のことだ〕

 〔『正法眼蔵』原文〕 

 西京光宅寺大証国師は、曹谿ソウケイの法嗣ホッスなり。


人帝・天帝テンタイおなじく恭敬クギョウ尊重ソンヂュウするところなり。


まことに神丹国シンタンコクに見聞まれなるところなり。


四代の帝師なるのみにあらず、皇帝てづからみづから車をひきて参内せしむ。


いはんやまた帝釈宮タイシャクグウの請ショウをえて、はるかに上天す。


諸天衆のなかにして、帝釈タイシャクのために説法す。


 国師因チナミニ僧問トウ、「如何是古仏心《如何にあらんか是れ古仏心》」。


 師云イワク、「牆壁瓦礫ショウヘキガリャク」。


 いはゆる問処は、這頭得恁麼シャトウトクインモといひ、那頭得恁麼といふなり。


この道得を挙して問処とせるなり。


この問処、ひろく古今の道得となれり。




〔『正法眼蔵』私訳〕   

 長安の光宅寺の大証国師(南陽慧忠)は、六祖大師の法統を継いだ者である。

西京光宅寺大証国師は、曹谿の法嗣ホッスなり。)


人間界の皇帝も、天上界の帝釈天も、同じく敬い尊ぶところである。

(人帝天帝、おなじく恭敬クギョウ尊重ソンジュウするところなり。)


本当に中国において見聞するのが稀なとうといお方である。

(まことに神丹国に見聞まれなるところなり。) 


四代にわたる皇帝の師であるばかりでなく、

皇帝自ら車を引いて宮廷に迎え入れるほどであった。

四代の帝師なるのみにあらず、皇帝てづからみづから車をひきて参内せしむ。)


まして、また帝釈天の招請を受けて、遥か天にのぼり、

天上界の衆生の中で、帝釈天のために法を説いたのである。

(いはんやまた帝釈宮の請をえて、はるかに上天す。諸天衆のなかにして、帝釈のために説法す。)


 国師にある時僧が尋ねた、「如何なるものが古仏心か」。

 (国師因僧問、「如何是古仏心《如何にあらんか是れ古仏心》」。)

 国師が言った、「古仏心とは垣・壁・瓦・小石のことだ」。

 (師云、「牆壁瓦礫ショウヘキガリャク」。)

 〔こう言って、意識のことを心だと思っている妄想を破砕されるのだ。〕

 

 この問いは、これも古仏心、あれも古仏心、

如何なるものもみな古仏心であると言うのである。

 (いはゆる問処は、這頭得恁麼シャトウトクインモといひ、那頭得恁麼といふなり。)

 〔この公案が不答話の公案である。僧は古仏心を尋ねたように聞こえるが、

如何なるものもみな古仏心であると、自らの所見を述べているのである。〕


この仏法を説き抜いている言葉をあげて、問いとしたのである。

(この道得を挙して問処とせるなり。)


この問い(「如何なるものが古仏心か」が、

広く古今にわたって仏法を説き抜く言葉となったのである。

(この問処、ひろく古今の道得となれり。



                       合掌



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