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正9-2-2b『第九古仏心』第二段その2b〔雪峰は言う、「趙州古仏(たった今にいる人の第一人者)」〕

 〔抄私訳〕

「雪峰いはく、『趙州ジョウシュウ古仏』。

しるべし、趙州たとひ古仏なりとも、雪峰もし古仏の力量を分奉ブンプせられざらんは、古仏に奉覲ブゴンする骨法を了達しがたからん。

いまの行履アンリは、古仏の加被カビによりて、古仏に参学するには、不答話の功夫あり。

いはゆる雪峰老漢、大丈夫なり。

古仏の家風および古仏の威儀イイギは、古仏にあらざるには相似ならず、

一等ならざるなり」とある。


これは、「雪峰もし古仏の力量」がなければ、「趙州古仏」とは言えないのである。「分奉」とは「曹谿古仏」の力を「雪峰」に及ぼす意味合いである。


また、「古仏の加被」とは擁護などという意味である。「不答話の功夫」とは、これまた、「雪峰」の言葉に「不答話」ということがあり。

その因縁の言葉を引き出されるのである。その因縁は別に注釈する。


「しかあれば、趙州の初中後善を参学して、古仏の寿量を参学すべし」とある。


これは前に「曹谿の頭正尾正を草料して、古仏はかくのごとくの巴鼻あることをしるべきなり」(曹谿の一貫して変わらないたった今の荘厳な光明を修行の材料とし、古仏にはこのような肝心要のとらえどころ(たった今)があることを知るべきである)とあったのと同じ意であり、


ここでは「趙州の初中後善を参学して、古仏の寿量を参学すべし」とあるのである。

前には「頭正尾正」「巴鼻」などとあり、ここでは「寿量」とあるがただ同じ意である。


〔聞書私訳〕

/仏の教化をこうむる機縁とも言わず、今は衆生をそれぞれ別とせず、

「皆令入仏道」(皆、仏道に入らしむ)と究め尽くすせば、

これが仏の「加被」(助力)であり、仏の「参学」でもあるのである。


/「不答」と言うのも、「如何是古仏心」(如何にあらんか是れ古仏心:如何なるも古仏心)言うときに、牆壁瓦礫ショウヘキガリャクと言うのは答えではない。

そのまま、「古仏心」を「古仏心」牆壁瓦礫と言うときに、「不答」なのである。

このように言うことを「不答話」(問いの言葉が答えを説き抜き、答えが問いのオウム返しになる問答)と言うのである。


                       合掌



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