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正9-2-1b『第九古仏心』第二段その1b〔今は亡き宏智古仏(たった今にいる人の中の第一人者)と対面した〕

 〔抄私訳〕

「先師いはくこれは如浄禅師のことである)

「与宏智古仏相見《宏智ワンシ古仏と相見ショウケンす》」。はかりしりぬ、天童の屋裏に古仏あり、古仏の屋裏に天童あることを。」とある。


これは、「宏智古仏と相見す」とは、「古仏」と「古仏」が「相見する」(対面する)道理を述べられるのである。


「圜悟エンゴ禅師いはく、『稽首曹谿真古仏《稽首ケイシュす、曹谿真の古仏》』。しるべし、釈迦牟尼仏より第三十三世はこれ古仏なりと稽首すべきなり」とある。


圜悟が、六祖慧能稽首する(頭を地に付けて礼拝する)ことを言われるのである。

また、釈尊より三十三世はみな「古仏」であると知るべきで、どなたも差別や勝劣はないのである。


「圜悟禅師に古仏の荘厳ショウゴン光明あるゆゑに、古仏と相見しきたるに、恁麼インモの礼拝ライハイあり。しかあればすなはち、曹谿の頭正尾正ズシンビシンを草料して、古仏はかくのごとくの巴鼻ハビあることをしるべきなり。

この巴鼻あるは、この古仏なり」とある。


圜悟を褒められるのである。「古仏」と「古仏」であるから、

「恁麼の礼拝」があるのである、と讃嘆されるのである。


「曹谿の頭正尾正」とは、ただ六祖の有り様という意であり、

「巴鼻」もこの意味合いである。


《傍注:疎山は洞山の悟本大師良价の弟子である。

嶺とは羅山法寶大師のことであり、徳山の孫弟子である。》


「疎山ソザンいはく、大嶺頭有古仏、放光射到此間

《大嶺頭ダイユレイトウに古仏有り、放光此間に射到す》

しるべし、疎山すでに古仏と相見すといふことを。ほかに参尋すべからず。

古仏の有処は、大嶺頭なり。

古仏にあらざる自己は古仏の出処をしるべからず。

古仏の在処をしるは古仏なるべし」とある。


これは、因縁があるからこの言葉を書き出したのである。

その因縁は別にある。


これも「古仏」と「古仏」が「相見」する道理を述べられるのである。

本当に、「古仏」でなければ「古仏」の居る所を知ることはできないのである。


〔聞書私訳〕

/「先師いはく、『与宏智古仏相見』」の段。

これは新古についての考えを改めさせる証しである。


今の釈迦を新しく成った妙覚遍照尊として新仏と言い、

五百塵点刧(久遠の過去)の当時からの仏を「古仏」と言う。


これは顕本ケンポン(法華経本門の寿量品で、釈迦の仏身について、

久遠実成の仏であることを顕す)の本には、近本と遠本がある。


五百塵点刧が遠本無始無終と言い、

大昔の如来や久遠実成今世で成仏したと説いてきた釈尊が、

実は五百塵点劫という非常に遠い過去に成仏していたということの菩薩のことである。


内に菩薩行を秘め、外にこれを現すのを声聞と言っている。


また、今の大通智勝仏(仏の出家前の十六人目の王子が釈尊の過去世と言われている)を、

中間の仏として立てようとするのとはまったく違って、今天童山に坐する宏智を「古仏」と言った時に、日頃心得ている新古の義を超越する新古なのである。


新しく成った仏は方便(方法を用いて衆生を教導すること)で、

久遠実成の仏は真実だと談ずるのは、教〈天台教学〉の談である。


本当は道を得ることも、仏に成ることもない。

これらはみな仏が衆生済度のためにこの世に現れた仮の姿なのである。


/「古仏の在処をしるは古仏なるべし」と言う、

桃の花が悟るとき霊雲志勤レイウンシゴンも悟り、

竹の響きが悟るとき香厳智閑キョウゲンチカンも悟る。

大地有情同時成道(大地と有情と同時に成道)の時、仏も成道するのである。


                       合掌



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