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正8-3-3a『第八心不可得』第三段の3a 原文私訳〔この腑抜けめ、ぼやぼやするな〕

 〔『正法眼蔵』原文〕 

恁麼インモいはんに、徳山トクサンさだめて擬議ギギすべし。


当恁麼時トウインモジ、もちひ三枚を拈ネンじて徳山に度与トヨすべし。


徳山とらんと擬せんとき、婆子バスいふべし、

「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。


もし又徳山展手テンシュ擬取ギシュウせずは、

一餅イッピンを拈じて徳山をうちていふべし、

「無魂屍子、你莫茫然

《無魂の屍子シシ、你ナンジ茫然ボウゼンなること莫ナカれ》」。


かくのごとくいはんに、徳山いふことあらばよし、

いふことなからんには、婆子さらに徳山のためにいふべし。


ただ払袖フッショウしてさる、そでのなかに蜂ありともおぼえず。


徳山も、「われはいふことあたはず、老婆わがためにいふべし」

ともいはず。


しかあれば、

いふべきをいはざるのみにあらず、とふべきをもとはず。



〔『正法眼蔵』私訳〕

このように言うと、徳山はきっとびっくりするであろう。

(恁麼いはんに、徳山さだめて擬議すべし。)

〔それは、餅と心は一つであるのに、

餅と心の仕切りが取れないからだ。〕


その時には、餅を三つ取って徳山にくれてやるといい。

(当恁麼時、もちひ三枚を拈じて徳山に度与すべし。)


徳山が取ろうとしたら、老婆はこう言うといい、

「これが過去心不可得という餅だ、これが現在心不可得という餅だ、

これが未来心不可得という餅だ」と。

(徳山とらんと擬せんとき、婆子いふべし、

「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。)


もしまた徳山が手をのばして取ろうとしなかったら、

餅を一つ取り徳山を打って、言うといい、

「この腑抜フヌけめ、ぼやぼやするな」。

(もし又徳山展手擬取せずば、一餅を拈じて徳山をうちていふべし、

「無魂屍子、你莫茫然《無魂の屍子、你茫然なること莫れ》」。


こう言った時に、徳山が答えることができればいいが、答えることができなければ、老婆はさらに徳山のために教えてやるといい。(かくのごとくいはんに、徳山いふことあらばよし、いふことなからんには、

婆子さらに徳山のためにいふべし。)


それなのに、ただ袖を払って行ってしまうなどとは、無人情な話しである。これでは袖の中に毒々しい蜂が潜んでおるとも思えない。

(ただ払袖してさる、そでのなかに蜂ありともおぼえず。)

〔袖の中の蜂は『烈女伝』の尹伯奇の因縁である。〕


徳山も徳山だ、「わたしは答えることができない、

老婆よわたしに教えてください」とも言わない。

(徳山も、「われはいふことあたはず、老婆わがためにいふべし」ともいはず。)

そうであるから、二人は言うべきことを言わないだけでなく、

問うべきことも問わなかったのである。

(しかあれば、いふべきをいはざるのみにあらず、とふべきをもとはず。)



                    

                        合掌



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